『越登賀三州志』現代語訳 その壱



『越登賀三州志 ケンコウ余考』 第5巻 賀越能三州の土寇蜂起し、富樫氏が社稷を失う  その1

長享2(1488)年の春、富樫政親が高尾城を修理した。
夏の4月に、野々市より移ってきて兵を養い、土寇を討伐するような様子を示した。

よって石川郡押野の富樫家信、石川郡久安の富樫家元、江沼郡山代の富樫泰行をはじめ、代々の家来や恩を受けた武士たちがある者は弓を取り、ある者は槍を担いで馳せ集まってきた。
それらの中でただ1人、政親の叔父にあたる富樫泰高は政親とは不和の間柄だったので、政親方に組みしなかった。

そこで政親は越前など隣国へ使者や手紙を送り、事ここに至った事情を告げ、援軍を求めたのだ。
そのため、加賀の国内全ての土賊は大いに怖れて心も安からず思い、前非を悔いた賊の頭領どもは富樫家家老の山川三河守のところに行って自分たちの罪を詫びたのである。
それで山川三河守は、賊徒の討伐についてしばらく猶予を与えるよう、政親に諌めようとしたのだが、賊徒どもをこのまま放置しておいては後悔先に立たず、この機を逸してはならない、という政親の思いに、諫言は退けられたのだ

いよいよ賊徒討伐の軍議が決し、すでに部将たちの編成も終わったという噂を耳にした賊党どもはついに和議をあきらめて、隣国からの援軍の来る道の険しく狭い場所において、自分たちの勢いを頼んで防御する必要に迫られ、それぞれの地に向かう兵を募り、5月26日に出発したのである。

対越前方面へは、安藤九郎を大将として賊衆2000が江沼郡の敷地・福田に魚のウロコのように連なり集まった。
対越中方面へは、越智伯耆守を大将として賊兵4000が、河北郡の峠道である倶利伽羅・松根に雲のように密集した。
また、洲崎泉入道慶覚坊・同十郎左衛門正季・河合藤左衛門宣久石黒孫右衛門を大将として、河北郡の賊衆を集め、石川郡野々市の守護所と高尾城の間にある石川郡久安に新しく砦を築いて高尾山の城に相対したのだ。

また河北郡木越の光徳寺同郡磯部の勝願寺同郡鳥越の弘願寺(ぐがんじ)同郡若松の道場・江沼郡山田の光教寺讃山大坊主が、野々市の大乗寺に集まり、いろいろな事柄を互いに相談した。
そこで富樫泰高は富樫一族ではあるが、政親の一派とはいつも一族の惣領職を争い、親もなく軽々として政親を快く思っていないので、これ幸いと彼を引き出して加賀国守護と仰ぎ、諸賊の盟主に仕立てて彼らの指揮をとらせたのだ。

また石川郡の笠間兵衛家次は賊衆を率いて野々市の馬市に陣をおき、宇津呂備前は賊衆5000を率いて野々市諏訪神社の林に陣をおいた。
山本入道円正は手下の賊衆を率いて石川郡山科に来て、高橋新左衛門は一党の他に6ヶの賊衆を率いて石川郡押野に雲集した。
安吉源左衛門家長は石川郡河原隊の賊衆を率いて高尾城西南隣の額谷に陣を、石川郡の海岸沿いの賊徒は石川郡広岡山王神社の林に集まった。
加賀郡(河北郡)の賊徒は大衆免(だいじゅめ)に集まる者どももいて、これら諸陣の賊衆は、大坊主が集まっている大乗寺からの命令を待っていたのだ


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