越登賀三州志 その1 注釈c

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洲崎泉入道慶覚坊

一揆の俗人武士だが、彼には間違った説が非常に多い。あるいは和泉守と書き、あるいは鏡覚と書く。賊の首領ということで是正する必要もないというが、私(富田景周)はその履歴をここに記す。
慶覚坊は近江の出身で洲崎兵庫といい、蓮如の弟子となる。河北郡松根に館を構え、森下・柳橋・小坂・大樋(全て現金沢市浅野川以北の北国街道沿い)まで押領したと言われており、天文19(1550)年の史料にある。

また、石川郡米泉に住んで、西泉・泉野の3泉(現金沢市犀川以南、伏見川流域周辺)を領地とし、金沢御坊とされる本源寺と威勢を争い、その故に自ら「泉入道」と僭称した。それを後世の人が「和泉守」と記すのは間違いである。
高尾城の落城後、自分の道場を米泉に構え、蓮如から授かった行基作の阿弥陀如来像を安置した。
慶覚坊の墓は、今(江戸時代)でもなお米泉にある。また慶覚坊は、今の金沢百姓町(現金沢市幸町)慶覚寺の開祖である。米泉の道場を数十年の後、寛永年間に百姓町へ移したとされる。

慈雲寺本に、加賀国石川郡米泉村に住み、泉野郷を領地として、後に金沢御坊の本源寺と威勢を争う。あるいは、河北郡大樋・小坂・柳橋・森下まで兵庫の押領地と言われる。その詳細は私の『加賀古墟考』の河北郡の項で解説しており、ここでは大略のみ記す。
高尾城の落城後、自分の道場を米泉に構え、(中略) 阿弥陀仏像を安置してここに住んだ。(中略)
考えるに、泉入道とは彼が泉野郷を領したために自ら僭称したものを後世の人が誤って和泉守などとしたもので、笑ってしまう、とある。

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