『越登賀三州志』 その1 注釈i

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安吉源左衛門家長

今の石川郡安吉村に館跡があり、大窪源左衛門家長が築くと伝えられている。
この大窪が本来の姓で、安吉に住んでいたために安吉源左衛門と呼ばれたのだろう。

『越加記』に、家長は山城国愛宕郡嵯峨の生まれで源平争乱の頃に加賀に来たとされ、長享の頃、家長が安吉に築城して賊将となったとされる。
また手取川あたりの田地4万石を領して一向一揆・河原組の部将となったことから、今も相川村・石立村(現松任市相川・石立町)あたりを4万石浦と言い伝えている。

天文20(1551)年、出家剃髪して浄土寺了海と称した。今の安吉浄土寺の祖である。
家長に2子あり、兄を了明といい、これも出家した。


弟を大窪忠左衛門安治(一説に五郎左衛門)といい、加賀藩士大久保伊左衛門の祖である。
しかし今の伊左衛門家の家譜には、先祖の賊将であることを忌み隠し、前田家に仕官したときに生国も三河国と書き、大窪も大久保に書き換えたと思われるが、実はここに記したとおりである。
それは大窪氏だけでなく、前田氏が加賀藩を開いたときに仕官した武士に、この例が多い。

家長の妻は富樫政親の家老・山川三河守の妹である。
天文19(1550)年に安吉の城を家臣の窪田大炊允経忠に譲ったが、この経忠は家長の姉婿である。
経忠は家長の跡を継いで河原組の賊将となり、『越加記』天正4(1576)年8月2日の一揆衆連名状にも名が見える。
安吉城は天正8(1580)年、柴田勝家のために落とされ、経忠は戦死した。

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