『越登賀三州志』現代語訳 その弐



『越登賀三州志 ケンコウ余考』 第5巻 賀越能三州の土寇蜂起し、富樫氏が社稷を失う  その2
かくして大坊主の指揮により、長享2(1488)年5月10日、諸賊が高尾城下にアリのように集まって猛攻をくわえた。
立て籠る城兵たちはこれを防ぎきれずに、ある者は手足を切り捨てられ、賊に降参して首を切られるのをまぬがれた者は数百に及んだ。
しかしこの期に及んでも、隣国からは援軍が来なかった。

政親は、これは賊徒が援軍の通路を遮断しているのに違いないと考え、すぐに松坂八郎信遠に援軍の通路を開くことを命じた。
この命令を受けた信遠は、13日の夜明け前に部下の精鋭2000を率い、城を脱出して江沼郡槻津に至ったところ、江沼郡の賊党である今江久太郎を大将とした軍が信遠の軍を囲んだ。
この時、信遠の軍中では賊に内応する者が続出し、その武器を味方に向けてきたので、信遠も切歯したがこれらと戦うわけにもいかなかった。

そこで直属の兵わずかに300人ほどを連れて高尾城へ退こうと、夜に紛れて石川郡の今湊を渡り、城へ向かおうとしたのだが、石川郡長屋の賊が群れ起こって彼らを追撃した。
この戦いで信遠は馬を射られて落馬したところを討ち取られ、傷を負った兵たちは手取川に走り逃げて溺死し、川の水はそのため赤く染まったのである。


また、山川三河守も城兵1500を従え、高尾城を発して石川郡宮腰・大野の港に至ったが、河北郡高松に集まる賊徒が浦上九兵衛・馬飼喜八郎を大将として5000余りが蜂起し、山川の軍勢を四方から一斉に攻撃を加えてきた。
山川は防戦に疲れ、山に向かって逃げようとするのを、賊衆は自分たちの鋭気に乗じて追撃を繰り返してきたので、城兵側の軍列は崩壊し、傷を負った老兵、倒れ伏した兵、彼らが互いに枕して寄りかかるさまは、まるで草原のように平らに見え、残った兵わずかに100余りで高尾城へ逃げ帰ったのだ。

これらによって賊衆の意気はますます上がり、金森玄英入道了然を大将として能美・江沼の賊2000を越前国境へ向かわせ、若林藤内友澄を大将として加賀郡(河北郡)の賊1000を越中国境へ、笠間兵衛・高橋新左衛門を大将として賊2000を能登国境へ向かわせた

これより先、加賀の土賊討伐の援軍のことについて、将軍義尚公より、越前・越中・能登へ将軍の御教書が下った。
よって越中4郡の代官・松原出羽守信次をして兵1000を集め、竹木石見守を部将として射水郡放生津に陣を、中郡の兵800に稲川半太を部将として吉江・曰沢に陣を構えさせ、砺波郡の兵700に田原新吾を部将として砺波郡蓮沼に進ませた。

5月28日阿曽孫八郎・小杉新八郎が精鋭2000を率いて先鋒となり、軍を3隊に分け、倶利伽羅峠より加賀に乱入した。
このとき、賊の大将・越智伯耆がこの軍を迎え撃ち、若林藤内の軍が不動嶽から迂回して越智軍に加勢したので越中勢は敗れ去り、清水谷の崖へみずから足を踏み入れて転落するものが非常に多かった。

阿曽孫八郎は馬を捨てて徒歩立ちとなって奮戦し、土手に上ってしばらく休憩していると、賊将の安井源五とその弟の長九郎とが連れ立ってきて彼を斬り殺した。
越中勢はこれを見て倶利伽羅峠の要害であることを知り、改めて海岸沿いに攻め込もうといったん軍を返したが、越智伯耆の軍がこれを追撃して若干の首級を挙げた。


残りの越中勢は大野に至ったが、英田の光済寺が味方の武士と賊党がこれを迎え撃ち、越智伯耆もまた越中勢が大野へ迂回することを察し、大野に行って攻め立てると越中勢は敗北して逃げ去った。

また能登の畠山義統の援軍は河北郡黒津舟まで進出して来たが、賊将の笠間兵衛と高橋新左衛門の軍がこれを迎え撃った。
この合戦の最中に、加賀(河北)郡の賊党が河北潟の湖水に兵を乗せた舟を走らせ、能登勢の後方に回り込んでこれを挟み撃ちにしたところ、能登の兵は大混乱に陥って敗北を喫した。
これは6月5日のことであった。

前項に戻る     トップに戻る     目次に戻る    次項に進む

inserted by FC2 system