『越登賀三州志』 その1 注釈d
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河合藤左衛門宣久
河合宣久は、もともと摂津国多田氏の一族で、後に越前の朝倉家に仕え、多田五郎政春といった。
その後、加賀国能美郡河合村に移り住み、河合藤左衛門と改名して、一向一揆の大将となった。
孫の藤左衛門の代に石川郡坪野村(現金沢市坪野町)に転居し、名を才覚と改め、今なお坪野に才覚第(館)の地名が残るという。
その末裔が慶長年間に町人となり、金沢へ出て坪野屋源兵衛といい、木倉町に住む。
その後、岩谷牛右衛門宅跡の敷地内(牛右衛門橋町あたり)に搾油具を設け、金沢の油の元締めとなって今に至る。今の竪町の油屋源兵衛の先祖である。
石黒孫右衛門
天正年間のはじめ、賊の大将に石黒土佐守政辰がおり、その一族だろうか。
石川郡久安
今なお、堡塁の跡がある。
砦を築いて
考えるに、前の文に富樫家元が久安に住んだとあり、そうすれば家元が高尾城に守り手として入った後、賊がその館跡に拠って陣を構えたのだろうか。この時、賊徒は12月から翌年5月まで修理したという。
高尾山の城に相対した
高尾と久安の間は、2キロメートルほどの距離にある。