吉 藤 専 光 寺

     

比 定 地 開  基 開 山 時 期
石川郡吉藤(金沢市専光寺町) 志念 元応2(1320)年
本願寺3世の覚如の弟子・志念が石川郡大糠(大額・おおぬか)に創建したと伝えられ、永享9(1437)年に本願寺存如から下付された『三帖和讃』に「加州吉藤専光寺」とあることから、遅くともこの時点で石川郡大野庄吉藤に移転していたことがわかる。
存如からは他にも聖教類を下付されており、また文明3(1471)年には蓮如から『親鸞絵伝』を下されていることから、蓮如以前の加賀において、屈指の末寺として扱われていた。
文明14(1482)年の『臨川寺領加賀国大野庄年貢算用状』に専光寺の記載があり、当時においても北加賀の臨海荘園である大野庄の最有力本願寺派寺院と考えられていた。
加賀守護・冨樫政親を滅ぼした長享2(1488)年の長享一揆の際には、加賀の大坊主としての動向が『官知論』に記されており、「四山大坊主」の一員を構成していた。
蓮如以後、明応2(1493)年には本願寺9世実如(蓮如の子)から、専光寺開基の志念絵像が下付されているものの、その2年後の明応4(1495)年の『大野庄年貢算用状』には専光寺に対する記述はなく、代りに「若松殿」(若松本泉寺蓮悟)宛て「弔料」などが記載されていて、この頃には賀州三ヶ寺の下におかれたらしいことがわかる。
享禄の錯乱には賀州三ヶ寺派(小一揆)に属していたらしく、乱後の本願寺証如の日記『天文日記』に「前吉藤下」「前専光寺下」として、もと専光寺門徒が本願寺の直参門徒に組み入れられている様子が記録されている。
その後、天文20(1551)年2月に本願寺証如に「赦免」された享禄の錯乱及び天文の乱関係者が「加州牢人四十人」あり、この中に専光寺も入っていたのではないかと考えられている。
この時代になるとかつての隆盛もなく、そのまま石山合戦の時期を迎えたと考えられる。
慶長元(1596)年、前田2代利長に金沢後町に寺地を与えられ、その後若干の変転のあと、前田3代利常から現在の寺地(金沢市本町)に替えられて現在に至っている。
旧地の石川郡吉藤は専光寺が退転した後、旧地名の吉藤が消えて専光寺村となった。
左画像は金沢市専光寺町の吉藤神社で、現在、吉藤の名が冠されているのはここぐらい。
右画像は金沢市本町にある、現在の専光寺。門とその後ろに見える本堂の大きさが大坊であることを知らしめている。

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