金 沢 御 堂

比 定 地 開  基 開 山 時 期
石川郡金沢(金沢市丸の内町一帯) な し 天文15(1546)年
金沢御坊、御山御坊、また尾山御坊とも称された本願寺の別院的性格を持つ寺で、後に本願寺の加賀政庁的役割を持った。
京都『石清水文書』の中の「菊大路文書・賀州西泉勘定状」に
「天文十四年分(中略)弐貫五百文みだうたてられ候 於石河惣国中ふしん 両度樽出候(中略)天文拾五年六月十八日」とあり、また、本願寺証如の日記である『天文日記』の天文15(1546)年10月29日条に
「加州金沢坊舎へ本尊 木仏 開山御影 太幅也 御伝、泥仏名号 賛書之 実如影差下之。三具足其外仏器、燈台以下悉道具共下之。
為堂衆、広済寺 慶信差下之。」、また同史料の同年12月9日条に
「加州金沢一宇へ、七高僧、皇太子下之。」とある。
これが金沢御堂建立についての基本史料であり、同時に、金沢という地名の初見でもある。

これらの事柄から、金沢御堂は、一般寺院のように誰が建てたということではなく、強いて言うならば本願寺証如の命または許可によって金沢に建立された寺と言うことができる。
地理的には東の医王山塊から北西方向に細長く舌状に伸びた小立野台地(標高80〜50m)の最先端にあり、北の浅野川、南の犀川に挟まれた所にある、現在の金沢市丸の内町すなわち金沢城の、おそらく本丸一帯ではないかと考えられているが、現在のところ物的証拠は出ていない。
金沢城の本丸に西から向う途中、「極楽橋」という橋があり、ここから当時日本海に沈む夕陽が見渡せたはずで、その名前から城内一の高台である本丸一帯に比定されている。

金沢御堂が建立されたのは、享禄の錯乱後、本願寺の一門・一家衆が他国に退転し、そして天文12(1543)年、石山本願寺の阿弥陀堂竣工と証如の嫡男・顕如誕生の祝いに加賀の有力な本願寺門徒たち60余人が本願寺大坂石山に上り、証如と対面した直後と言え、本願寺の金城湯池とも言うべき加賀の直接掌握のため、本願寺が乗り出したのが理由とされている。
本願寺の別院的性格は、堂衆として本願寺から広済寺・慶信が派遣されて取り仕切り、これに御蔵衆が財政を担当したと推定され、最終的には加賀全体を統括する政庁、また軍事拠点となったと考えられている。
天正8(1580)年4月、その前年に加賀の大半を制圧した柴田勝家らの猛攻により陥落、散発的な抵抗の後、金沢は完全に織田軍の占領下におかれることになる。

金沢城遺跡においての寺内町遺跡は確認されていないが、金沢城跡の広さから考えて「内寺内」の可能性が指摘され、その周囲の平野部に後町、南町の存在が史料上確認されることから、これらは「外寺内」の一部ではないかと考えられている。
最近、金沢城直下、真南にある金沢市広坂町発掘調査により中世町屋の跡が発見され、金沢城下の前身に当る金沢御堂寺内町の研究も進むものと期待されている。

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