木 越 光 徳 寺

     

比 定 地 開  基 開 山 時 期
河北郡木越(金沢市木越町) 宗性(冨樫仏誓の孫) 文永11(1274)年
当時の所伝は2種類あり、明徳3(1393)年に勧行坊によって当地に建立されたという寺伝(金沢市玉川町光徳寺伝)と、文永11(1274)年に冨樫仏誓入道の孫・宗性によって開かれたという寺伝(七尾市光徳寺伝)とがある。
本稿では『官知論』その他による冨樫一族との繋がりを考え、七尾市光徳寺伝を採用した。

文安6(1449)年5月に本願寺蓮如から『三帖和讃』が木越光徳寺に下付されていて、当時すでに加賀屈指の大坊に成長していたことがわかる。
もともと木越の地は金沢市の北部にあって、金沢市小二又町を源流とし伝燈寺前を西に流れて河北潟に注ぐ金腐川沿いにあり、ほか柳橋川、浅野川など河北潟に流れ込む北加賀諸河川の下流域中央部にある。
言うなれば北加賀山間部と河北潟・大野湊を結ぶ河川交通の中継地点であり、要衝に位置していて、長享の高尾城合戦において一揆衆を率いて参戦するなど、当時の勢力の大きさが窺える。
享禄の錯乱では史料がなく明確ではないが、『天文日記』に「前木越下」「木越衆」などとの記載があり、三ヶ寺派に近かったと考えられている。
しかし天正年間の信長軍の加賀侵攻に際しては、ここが戦場になった記事もあり、三ヶ寺派のように錯乱の時に退転したとは考えにくく、加賀一向一揆の末期においてもなお有力な在地の大坊だったことが想像される。
またこの地には享禄・天文年間から史料上に出てくる光琳寺、光専寺もあったとされ、「木越三光」と呼ばれていた。



左画像は現在の金沢市市木越町の様子を金腐川堤防上から撮影。中央部の水田を中心に光徳寺が建っていたとされる。
右画像は七尾市にある現在の真宗本願寺派光徳寺で、七尾の畝源三郎殿のご協力により掲載。禁無断転載。

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