長享2(1488)年の一揆で主戦場となった、加賀守護・冨樫氏の城。
金沢市の南部、鶴来町方向から延びる丘陵地域が伏見川に遮られる部分で、金沢市高尾町一帯の背後丘陵・高尾丘陵となっているあたりに位置している。
かつては「ジョウヤマ」と呼ばれていた中央部分は、昭和45年に北陸自動車道建設のための土取り場として破壊され、当時金沢大学教授で一向一揆研究の第一人者だった故井上鋭夫氏が激怒、市民運動もあって現在は石川県教育センターが建設されている。
当時から高尾城の主郭部分、または本丸あたりではないかと言われていたが、大規模機械による徹底的な破壊後の緊急発掘調査では、遺構は発見されなかった。
現在、高尾城と言えばこの県教育センターのある山域の写真が多く使われている。
昭和59年6月、金沢市教育委員会の2度にわたる分布調査が行われ、県教育センターのある「ジョウヤマ」を中心に、南北1500m、東西もまた1500mに及ぶ半円形の広大な地域において、土塁や石積、堀切などの遺構が確認され、これまでの想像を絶する規模の巨大な中世城郭だったことが判明した。
完全な発掘調査は行われておらず、分布調査の段階ではあるものの、この高尾城は単体の城郭というよりも小規模な城砦の集合体として考えるべきとの報告がなされており、筆者もその見解に賛同する。
この報告では、当初、城の主郭部分と考えられていた中央部は出丸の可能性が高く、主郭はその後方の山塊部ではないかと考えられている。
また、高尾城のある高尾丘陵から裾野に広がる額(ぬか)団地までの緩斜面の面積もかなり広く、七尾城における山麓部・シッケ遺跡のことを考え合わせると、この部分に何らかの施設があった可能性は高いものの、そのほとんどは住宅地となっており、調査の手が入る可能性は、ここ数十年の間はないだろう。
「高尾城小景」へ
上写真は、高尾丘陵裾野の高尾台地域から高尾城を望む。
中央の平坦面上部に白い建物の県教育センターがのぞく。
この場所では近すぎて、左右の丘陵部に広がる全景を捉え切れなかった。
下写真は、県教育センター背後の崖面上部から、金沢市・野々市町を望む。
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