『官知論』現代語訳 その拾弐



17 越前口の合戦の様子を知らせてくること

9日の早朝、越前口から伝令が到着し、以下のように申し述べたのである。
「越前からの加勢は堀江中務景用、南郷、杉若藤左衛門、志比、笠松らを大将として5000余騎が昨日8日に国境である橘(加賀市橘町)から乱入し、その近辺の在所をあちこち焼き払い、柵をこしらえて陣所にしました。

しかしながら今日の早朝、敷地(加賀市敷地町)、福田(加賀市福田町)の諸勢が願正入道、安藤九郎定治、金森玄英入道了然らを大将として7000余騎がすぐさま攻め寄せ、生死を厭わずに攻撃しました。
敵軍は思いのほか弱く、兵士数百人ほどを討ち果たし、止まるところなく逃げ出したのを追いかけ、具足なども脱ぎ捨ててほうほうの態で越前国坂井郡金津の上野というところまで退きました。
これから何度越前勢が乱入してきても大丈夫ですので、この方面については我らにお任せください。」

この越前口、越中口、そして高尾城攻め3ヶ所の合戦は、いずれも起こるべくして起こったのだが、しかし天命の時がこれを成し遂げたのだろうと人々は言い合ったのである。
そういえば古くから現在に至るまで、仏法を破滅させようと企てたり民衆を苛めたりするときは、その報いがたちどころに現れるとも聞いている。

だいたい、仏法と俗界の政治は車の両輪、鳥の2つの翼のようなものである。
片1方の車輪では走ることもできず、1つの翼では大空を飛ぶことはできないのであり、1つが欠けてもいけないのだ。
仏法をもって政治を護り、政治をもって仏法を尊ぶことこそ、天下安全の基礎であり、国土も豊な実りを約束するのである。
善行を積むことの良き報いは仏教信仰からくるのであり、悪行を積むことの悪い報いは仏法不信からくるのである。
善を好む家は春に向う草のように日々生長し、悪を好む門は刀を研ぐように日を経るごとに損失が続くのである。


官知論 跋文

「身が貴からずをもって、人を賤しむべからず」
と古書にあり、この意味は自分が高位高官にあったとしても、そうでない他人を軽んじて侮ってはならないということである。
官位ばかりが貴いと思ってはならず、才能や智慧こそが貴いのだ。
才能や智慧さえあれば人を治める道を知り、人を治めれば万民がこれを尊ぶのである。

「剣を撫でてこれを見、悪に己1人を当らせる。これを匹夫の勇といい、1人の敵に当るものなり。」
とは孟子の言葉であるが、この意味は1人で太刀を持ち、たとえ千万人の中に入って四方八方を切りまくると言っても、これは愚か者の勇気と言い、褒められるべきことではないのである。
その気になれば、扇子1本でも天下を治める道があるのだ。

周の文王・武王は殷の紂王の残虐な政治を滅ぼし、人々のための政治を行って天下を平らかにしたのである。
これなどは百千万億人に対する大いなる勇気と言うべきで、これこそが誉れとなるものである。
秦末漢初の動乱の時代、楚の項羽は兵法を学び、また武術においても達人であった。
しかしこれは1人で敵に当るという剣であって、益するところはあまりないのである。
万人の敵を打つことを学ぼうとして、剣を学んではならないのだ。

「天子の剣は天下国家をもって剣とされるのである。
諸侯の剣は智慧や勇気をもって剣の鋒とし、清く正しい行いをもって刃とし、賢人や良民をもって剣の胸とし、聖人の教えへの忠義をもって鍔とし、武術に通じた豪傑をもって剣の柄とするのである。
普通の人の剣は、髪を乱し鉢巻・腕まくりをして、目を怒らせののしりながら戦うという、ただの小さな争いをするようなものである。」
これは『荘子』の言葉であり、この場合の剣は「心の剣」という意味であり、聖者の智慧であり人の道である。
心の剣がさびれば人もこれを恐れなくなり、この心の錆は私欲である。
全ての問題は、この私欲から起きるのだ。

政親殿も威勢は高く力も強く、太刀や薙刀、棒の技などといって愚か者の勇気を好み、国主としての義務を怠ったために加賀国内の民衆もくたびれ果てて国主を見捨てたのである。
そしてそのために愚か者の政親となってしまい、戦死された時に太刀や薙刀、棒などは確かに一時の役には立ったものの、それに何の益があるのだろうか。
ただ、悪名を後世に残しただけではないのだろうか。

国中の武士たちも、本来賎しい者どもではなかったのだ。
75代崇徳天皇の時代、天治2(1125)年3月8日に富樫殿の元祖が加賀介に任じられて加賀に下国されて以来、この長享2(1488)年まで数えで365年が経った。
富樫殿代々の息子たちは、あちらの荘園こちらの村とあちこちに領地を賜り、その地の名前を苗字としたのであり、その人々の子孫が今の名前ある武士たちであって、みな一族のうちなのである。

国守はじめ政治をする武士たちが和を保ち、治められるべき民衆がこれに親しめば、草木の根が土中に深く固く入っていくように国を治めることができるのを、政親殿は厳しすぎる政治を行って高尾城に死骸を晒すようになってしまったのである。
上に立つ君としての道を知らなかったのであろうと、心ある者は話し合ったのである。

この物語は、ある人の持つ箱の底にあったのである。
私は請い願ってこれを拝見し、かつての加賀の争乱を記したのである。
しかし私の友人である入道某という方は90歳を過ぎておられたのだが、常に私に語ったのであった。

「我が父は富樫殿代々の家来であった。その故に高尾城の戦いにあって戦死したのである。
我が母の兄君は、富樫殿が崇敬していた河北郡伝灯寺の僧であった。
我は父母兄弟が早くに亡くなったので、この僧に育てていただいて成人したのである。
そのため、毎日のように富樫殿の物語を聞いたのである。」

私がこの書を求めたことをこの人が聞きつけて、見せてほしいと言ってきた。
そしてこの書を何度も読んで言われたのだ。
「我が子供の時から耳の底に止まっている物語と、ぴったりと符合しているが、しかし、我が聞いた話で漏れているものも多い。
お前は我が話す言葉を証拠として、これに書き加えるがいいだろう。」
私は才もなく頭もよくないのだが、人のあざけりを顧みずに、聞き書きを書き加えたのである。
あとの願いとしては、後世の人々が文字の誤りや文章の行き違いなどを添削してほしいと思うだけである。
 寛永16(1639)年12月上旬 これを書く。                  嶺雲 22歳

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