『官知論』現代語訳 その拾壱



16 高尾城落城のこと、また富樫政親の自害のこと

政親が愛用の軍装は、藤右馬尉(とううまのじょう)が打上げた柄も120cm刀身も120cmという白柄の薙刀で、刃は茅(ちがや)の葉のように曲線を描いているのを左手に立て、次に自然に枯れるほど大きな樫の棒、これは長さが2.4mほどであったが八角に形を整えて64の鉄鏃を打ち込んだものを右手の脇に立てていたのである。
また越前藤島出身だが加賀の刀工である藤島友重が鍛えた2.8mほどの大太刀に、太刀鞘の中ほどから鍔まで馬の手綱をきりきりと巻き締めたものを身につけて立ったのである。

これほど武装を物々しくしたのは、政親一世一代の時にあって心を尽くした武器をいちいち用いて攻め手の一揆軍の目を驚かせようということであったのだろうか。
そして政親は、上が淡く下に行くほど濃い紫染めの巨大な腹巻を4人がかりで持ってこさせて着込み、同じ紫色に白を加えた兜に大鍬形をつけたものをアミダにかぶり、例の薙刀をつかんで立ち上がり、にっこりと微笑んだのである。
年は32歳、身長は2mを超えており、その姿はあたかも寺の山門に立つ金剛仁王像のようであった。

彼は高尾城に残った兵どもに向って、
「皆は城の搦め手を防げ。大手は政親1人に任せるがよい。」
と言い放ち、氷のように冴えた剣を持ったかのように薙刀をうち振るって一揆軍の中に飛び込み、火花をあちこちに散らして戦ったのである。

「八方払い」、「四方楯」、「獅子の高臥し」、「臥竜の一曲」と、薙刀の秘術を尽くして敵を薙ぎ払い、さしもの勢いに乗る一揆勢も、この政親の奮戦に数多く討たれてしまったのである。
その場に残った一揆の衆も、これにはたまらず、嵐に散る木の葉のようにいったん軍を城の麓まで退いたと見るや政親は、薙刀を左肩に担いでゆらりゆらりと本丸へ戻って行ったのであった。
その姿は阿修羅王が海底の石を飛ばし火の矢を降らせて、帝釈天の守る喜見城へ攻め上るのもこのようでなかったかと思われるものであったのだ。

しばらくは床机に腰掛けて息を整えていたところ、左手の方から1万人ばかりがわめき叫びながら再び攻め上ってきたので、
「今度は、棒の秘術を見せてやろう。」
と、例の棒を引っつかんで3方を見渡したのち、1方に向って打ちかかり、「芝薙ぎ」、「石突き木の葉返し」、「水車」など、唐の徳山禅師が編みだした棒の秘術を尽くして散々に敵兵を打ち倒し、あっという間に30人以上が棒の犠牲になったのである。
残りの攻め手は、この有様に肝を冷やして我先に逃げ惑い、その様子は山が崩れて数え切れないほどの大石が転がり落ちて谷間を埋め尽くすようにも見えたのである。

政親は再び本丸に引き返し、城内を見回していると、今度は右手の方から大勢の攻め手が競うように攻め上ってくるのが見え、
「よくぞ来た。」
と言い放ち、例の棒をさっと投げ捨て、大太刀をひっさげて
「憎い者どもに、わが手並みを見せてくれよう。」
と、乱入してきた一揆軍に切り込みをかけ、三たび奮戦したのである。

巨大な体格を生かして相手を宙に引っさげては切り、袈裟懸け、払い切り、退くと見せてはひと太刀、将棋倒しの払い切り、磯を打つ波のような返し切り、乱れ模様のような「乱紋」、×形に切りつける「菱縫い」、蜘蛛のように振り回す「蛛手(くもて)」、振り回しては交錯させる「角縄」、「十文字」と、周囲の敵を8方に追い立てて戦い、彼に討たれた人数は数え切れないほどであった。
また、身につけた具足ともども貫かれて死ぬ者も多かったのである。
政親は城の高みに駆け上り、戦場となった城内を見回すと、死人怪我人は山城の谷を埋め、残った矢や刀は隙間のないスノコのように見えたのである。
政親の体にも矢が立ち、数えてみると18本ありつつも、鎧が堅いために裏まで通った矢は全くなかったのであった。

搦め手の合戦は、攻め手の軍勢も数万人あり、各々楯を並べて矢を防ぎつつ入れ替えをしながら攻め上っていたのである。
城方は槻橋一族を先頭に300余人が争うほどに防戦したのだが、攻め手は大勢の数を頼んで、討たれること傷つくことを厭わずに攻めかかったのである。
守る城方は城内の地理にも詳しく、あちこちの難所に敵を集め、また追い立てて戦ったのであった。
1隊は城の奥へ追い上げられ、また1隊は城の下へ追い崩され、敵も味方もお互い入り乱れてわめき叫びながら戦うのは、百千の雷鳴が同時に鳴ったかと思われるほどであったのである。

しかしながら多勢に無勢であり、城の衆はおおよそ討たれてしまい、残りの兵も足を止めることなく本丸に追い立てられたので、敗残の衆はさっと退いたのである。
死人怪我人の流した血はあまりに多く、山を覆い尽くすほどで、あたかも紅葉の大和国竜田川、桜の大和国初瀬と、紅葉の葉が朝露に濡れて輝き、赤い夕陽に染まるような有様のようであった。

本丸に戻った軍兵に
「これ以上、殺戮の罪を作ってはならない。来世の報いをどうするつもりか。我も8ヶ所、痛手を負った。
今は早く腹を切ろうと思う。者どもよ。」
と仰せになり、残った面々は承ったと、畳5、6畳を広庭に投げ出し、身分の上下もなく入り混じって腹を切ろうとしたのである。
政親はこれを見て
「そう急いで腹を切ってはならない。盃に刀を添えて、思い思いの相手と酒を飲むがよい。」
と命令したので、みなは大瓶を立て並べ、最後の酒宴を始めたのであった。

宴半ば、石川郡宮永郷を本拠とする林一族の宮永八郎三郎が扇子を取り、つっと立ち上がって拍子を踏み、一声をあげて
「春3月に花見を尽くし、秋の一時には命の葉も落ちやすい。」
と、2、3回謡い舞えば、座の人々も同じく
「千年の寿命のある松も朽ち果てるときがある。むくげの花は1日の命でしかないが、それでも命の間を誇っている。」
と唱和したのである。

「無作法ながら、八郎三郎は死出の旅路の露払いをさせていただきます。」
そして宮永八郎三郎はカワラケを取り上げて3度飲み、腹を十文字に切ると
「恐れながら勝見与次郎殿ヘお渡しいたします。」
と、盃に刀を添えて渡したのである。
「これは珍しい盃を。」
勝見与次郎もこれを受取り、同じく3度飲んで腹を切り、次に石川郡福増の住人である福益弥三郎に渡したのである。

そして那端(なんだ)、吉田、北川、白崎、進藤、黒川、与津屋五郎、谷屋入道、石川郡徳光の徳光西林房、河北郡田上の金子田上入道、八屋藤左衛門入道、長田三郎左衛門、宮永左京進、沢井彦八郎、石川郡安江の安江和泉守、神戸(しんと)七郎、斎藤一族の御園筑前守・同五郎、槻橋豊前守・同三郎左衛門・同近江守・同式部丞・同弥六・同三位房、山河又次郎、本郷興春房、以上30余人に回されたのである。

彼らのほか残ったのはわずかに大将の政親、その政親に18歳の時から仕えてきた老齢の本郷駿河守、使い童の千代松丸だけであった。
なかでも本郷駿河守との話は興をそそられることであった。
「もはや浮世に思うほどのこともなくなってしまったので、急いで腹をお切りください。某(それがし)は殿(しんがり)として追いかけましょう。」
「老武者を後にたてるという話はない。若い政親の方が殿(しんがり)をつとめよう。」
と互いに譲り合ったのだが、ついに駿河守も言い負けて、
「それでは先達を承ろう。」
と着物を開いて腹を十文字に切り、
 「影弱き弓張月の程もなく 我をいさめて入やかの国」
と辞世を読み、56歳の最後を遂げたのである。

政親も
「急いで追いつこうぞ。」
と仰せられ、千代松丸は30cmばかりの鎧通しに厚手の檀紙をきりきりと巻いてお渡しし、自らはかいがいしくも介錯役に回ったのである。
政親はこれを取って横一文字に腹を切り、返す刃でみぞおちに突き立て、そのまま臍の下まで一気に押し切り、赤く染まった刀を持って
 「五蘊もと空なりければ何ものか 借て来ぬらん借て帰さん」
と詠み、刀の切っ先を口に含んで体を一気に前に倒したので、短い刀とはいえ柄のあたりまで貫かれ、最期を遂げられたのである。

千代松丸は政親の遺骸を見苦しくないよう整え、そして本丸屋形のあちこちに火をかけて猛火の中に走り入って死出のお供をしたのである。
「年若い者ではあるが、頼もしい者であった。」
と褒めない人はいなかったのであった。

政親1人の業(ごう)で多くの者を道連れにしたことは、自業自得とは言いながらも輪廻転生したときの苦しみを考えたときが思いやられて、なお哀れに思うのである。
そのご一揆の諸勢が乱入して政親の首を取り、一揆軍の御大将に奉った富樫泰高のもとに送ってお目にかけると、ただ一目ご覧になるや言葉も少なくなられたのである。
 「言語道断(おもいきや)老木の花の残りつつ 若木の桜先散んとは」
と詠まれ、
「老人となってただ生き長らえてしまい、このような憂き目を見るとは。」
と涙にむせんだのであった。


以下、加本による。

ここで河合藤左衛門宣久、木越光徳寺が話しだしたのである。
「政親の殿は無道を振舞って万民の苦しみを知らず、それに加えて我ら国侍を滅ぼそうとされたので、窮鼠猫を噛むの喩えどおりになったものである。
これは我らの悪業ではないのだ。

むかし中国でも周の武王が、暴君で名高い殷の紂王を滅ぼす際、伯夷叔斉が武王の馬の轡(くつわ)にしがみついて諌めた時、
『昔から主君を討つということがあるという法はない。思い止まってください。』
と言ったのを武王が答えたこととして
『お前たちは知っているだろうか。これは武王という私個人が討つのではないのだ。
暴君である殷の紂王が天の責めを受けるのであり、逃れられないものなのである。』
とはねつけて、民衆の苦しみを救ったことがある。

これが天命というものであり、泰高殿が大将となって政親殿を討たれたのもまた、天命である。
こういうことであるので、この戦いが終っても君臣の礼は怠ってはならないのだ。」

そして国中の名ある人々は経帷子を着て、280人ばかりが首と死骸を納めた棺の前後の供に立ち、富樫氏の氏寺である野々市大乗寺へ送ったのである。
大乗寺では僧侶数十人が集まって葬儀を執り行い、ついに1つの灰となしたのである。
このとき、城の倉に積み置かれていた米や銭を取り出し、僧侶らの布施として与え、七七49日間、毎日読経を行って途切れることもなかったのである。

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