『官知論』現代語訳 その拾



13 槻橋近江守のこと

槻橋近江守重能は、富樫宗家に代々仕えてきた有力武士で、この重能は特に儒学に明るく、連歌もたしなんでおり、また武芸についてもひとかどの者であった。
しかしながら政親の代においてはあまり登用されず、そのため武家としての威勢も小さくなり、家禄も軽くなっていったのである。
在地にあって常に政親の苛政を見聞きし、あたかも自分に大きな悪事が起こるような気がして嘆いていたのだが、それは杞憂でなく、とうとう事実となってしまったのである。

木越光徳寺の妻の弟であり、8歳の時から政親の近習に取り立てられて12年の間、まがりなりにも政親の君恩を賜ったともいい、このために木越光徳寺も合戦の合間に何通もの書状を送って、なんとか呼び戻そうとしたのだけれど、槻橋近江守も最後まで承知せずに返事も文章を書くでもなく、
「思いきる道ばかりなり武士(もののふ)の 命よりなお名こそ惜しけれ」の歌を記してよこし、最後まで政親の供をする覚悟は、武士として天晴れなものであった。
まことに「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」の言葉どおりの武士であると、褒めない者はいなかったのである。


14 八屋藤左衛門のこと

八屋(はちや)藤左衛門祐兼は、先祖以来富樫家に仕えて、自分たちの一生を顧みずに代々忠義を尽くしていたのだが、政親の代になってからは同僚の嫉妬を受け、じわじわとそしられ続け、ついに政親の怒りに遭って出家し、法名を覚妙と改めて越前国宅羅(南条郡宅良)というところに住み、10年程が経っていたのである。

そういうときに加賀大乱の噂を聞き伝え、彼はこのように考えたのであった。
身は出家して仏道に帰依したというものの、心はまだ俗世間のことを考えている。
出家したとは言っても、このたびの主君のお供をしなければ、先祖からの忠節を汚すことになってしまう。

この身を君恩のために加賀に舞い戻らせ、この命を忠義のために軽く思い、墨染めの法衣を着て住みなれた庵を飛び出し、7日の明け方に高尾城に馳せ戻り、取次ぎの者さえわずらわせずに直接政親の前にかしこまり、御前の庭で申し上げたのである。
「ご主君のお怒りを仏縁として、出家の姿をしておりますけれども、主従の関係はまだ尽くしたとは思っておりませんので、このたびの危急に際しましてお供いたそうと思い、まかりこしました。」

これに政親は
「お前の我を思う心根は、山であれば世界の中心にある須弥山、海であれば深く広い大洋のようなものだ。
しかしながら、せっかく出家をしているのであるから、立ち帰って我の死後の菩提を弔うがよい。」
と、八屋覚妙の申し出を受け付けようとはしなかったので、覚妙は答えたのである。

「仏法の世界も俗世間ももともとは1つのものであり、迷いも悟りも同じくもとは1つのものと伺っております。
剣の刃渡りのように難しく、死んだ気になって修行して、初めてわかる悟りの境地ともお聞きしており、死中に活路を見出すという意味では、今がそのときだと存じます。
それを考えると、私が先に死のうが後に死のうが、今は同じことでございます。
まずは今ここで死出の先駆けをいたし、閻魔の庁までの道筋でお待ちすることにいたしましょう。」

言い終わると覚妙は腹を切ろうとしたので、政親も彼の刀を押し留めて、
「そこまで申すのであれば、お前の望みに任せることにしよう。」
と言い、伏縄目の腹巻に同じく3枚錣(しころ)の兜、楕円形の鍔をつけた大太刀を添えて、改めて主従の盃とともに八屋覚妙に下されたのである。
八屋覚妙も武士としての面目を施し、有り難く盃を頂戴して、
「これで死後の思い残しもなくなり、嬉しい限りです。」と、喜びの色にあふれたのである。
年老いた武士とは言え、最後の高名は天にも届くかというばかりであった。


15 山河三河守を高尾城から抜け落ちさせること

攻め手の一揆軍では昨日の戦いに人馬も疲労していたのだが、決戦は明日にあるとの軍議がなされ、諸勢はみな高尾城の麓まで押し詰め、夜明けを今や遅しと待っていたのである。
洲崎慶覚入道は、ただ1騎にて諸陣を駆け巡り、次のように命令を下していた。
「我らに降参する者がいたら、それら全てを助けてやれ。そうすれば城内に立て籠もる人数も少なくなり、ますます抵抗も小さくなっていくであろうよ。」
この言葉どおりに兜を脱ぎ武装を外して降参する者がおり、また密かに一揆衆の知己を頼って城から抜け出す者もあったので、明け方になってみると、籠城の者たちは半分以上も降参し、城内に残った者どもはわずかに300余人に過ぎなくなってしまったのである。

夜が明けて長享2(1488)年6月9日の早朝6時ごろ、一揆衆の諸勢はみな一斉に攻撃を始め、同時にときの声をあげてわめきながら城を攻め上り、その勢いは仏教でいう三千世界を振動させるかと思われるほどであり、戦いの守護神である阿修羅の率いる軍勢かとも思われるほど凄まじいものであった。

富樫勢の重鎮である山河三河守高藤は、菊花文様綴りの大ぶりの威しをつけた腹巻に、高い角をつけた兜をかぶり、2m近くの大太刀を水車のように振り回し、家来3騎と馬の轡(くつわ)を並べて白山麓・山内衆の軍勢に向って行ったのである。
一揆軍の本隊である鳥越弘願寺・木越光徳寺・磯部聖安寺・吉藤専光寺ら賀州四山の軍勢と山内衆の軍勢は、彼ら主従を軍の真ん中に引き入れて押し包み、大声で呼びかけたのだ。
「高尾城の様子を見ると、この戦いで落城することはいまや火を見るよりも明らかだ。ここは無駄死にせずに、天命を全うされよ。」

そして100騎ばかりで白山麓にある富樫家ゆかりの曹洞宗祗陀寺(ぎだじ)に送っていったん休息させ、その日の夜半には牛首川を遡り、加賀越前国境の谷峠を越えて越前国勝山まで送り届けたのである。
その様子は、あたかも猛り狂う虎から逃れ、迫る鰐(ワニ)たちから脱出するようなもので、『史記』に書かれている燕の太子丹が秦から逃げ帰る姿に似ていると言えるだろう。

それからしばらくして、加賀国内から早馬をたてて伝令を山内衆に送ったのである。
「毒草は根を切って葉を枯らさなければならない。毒虫は頭をもいで脳を取り去らなければならない。敵は胸を裂いて生き胆を撮らなければ安心できないと言う。
山河三河守を逃がしたことは、虎の子を養って野原に放ったようなものだ。急いで追いかけ、三河守を切腹させよ。」
その伝令は櫛の歯のように何度も繰り返されたのだが、すでに三河守一行は国境を越えており、この企ては盗賊に襲われてから弓の弦を張り、棒を振り回すようなものであったのだ。

山河三河守はもともと富樫政親の一族であり、日頃は君恩も厚く、富樫館内においては代々の重臣として人もないような振る舞いをし、守護家滅亡という大事件に際して様々の喩えを引いて主君の富樫政親を諌めたのであるが、すべて三河守の思いと違っていたことを知らなかったのだろうか。
人々はそう嘲笑し、この悪名はとても雪げるようなものでなく、末代まで続くだろうと言い合ったのである。
『論語』に「昔の学者が道を明らかにするのは自分の身につけるため、今の学者が道を明らかにするのは他人に自分を知らせるためである」というのは、このことを言うのだろう。

山河三河守に限らず、小松の本折一族の1人である本折越前守常範は、一騎当千の武将として政親に頼られていたのだが、一揆軍に騙されて投降した者の1人であった。
一揆衆の中では
「龍の鬚(ひげ)を撫でたり、虎の尻尾を踏んでいるような気がする」とか
「猛虎も山にいるときは百獣も恐れるほどの勢いだが、捕まえて檻に入れてしまえばしゅんとなってしまうものだ。猛威を振るう武士と言っても、いったん捕虜となってしまえば臆病風に吹かれてしまうものだ。」と言う者もいて結論は出なかったのである。

そこで一揆軍の大将にお目にかけようと本陣に連れて行くと、大将の郎党たち数十人が集まってきて、理不尽にも越前守主従3人を押し包んで討ち取ってしまったのである。
武将として名高い前漢の韓信は高祖の天下が定まってのち、反乱に連座して討ち取られ、本折越前守常範は自分の命を大事と思って、かえって一揆衆の為に罪を得たのである。
これは忠義の道を失っただけでなく、武士としての誉れや名をよごれた土で汚すことであり、これを憎まない者はいなかったのであった。

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