『官知論』現代語訳 その八



11 冨樫政親の妻が城を出て京都に赴くこと(下)

政親は聖安寺・光徳寺からの返事の内容を知ると、喜んで奥方に話をした。
「我は不慮の災難に会って、わが命も今日明日に限られるだろう。
お前は幼い姫を伴って都に上り、志があれば尼の法衣をまとい、都の一角にでも籠ってわが菩提を弔ってくれれば、すぐさま仏教でいう四苦八苦を離れて極楽に向かうことは疑いようもない。
また姫が成人すれば、誰か所縁の者に話して嫁に行かせるがよい。」

これを聞いた奥方は、さっと顔色を変えて、涙ながらに訴えたのである。
「『今昔物語』にも前漢の長安にいた妻が、夫の身代わりに自ら殺された話があり、また前漢の韓信や彭越という大将の妻は夫が殺された後、身を投げてしまったといい、わが国でも静御前は、夫の源義経に従って戦われたといいます。
武士の妻となって、このような境遇に会うことは、かねてから覚悟をしていましたので、姫は政親の殿が手にかけてください。
私は明日の合戦に、どこかの城戸口を守りましょう。
ですから都に行くというようなことは許してください。」

「それはならん。死ぬ身は1代だが、名は末代まで残るのだ。
死体を高尾の山にさらし、いやしい土民どもに見せるなど、口惜しくてできるはずがない。
とにかく、お前は都に向うのだ。」
と、政親は勧めるのだが、奥方もなかなか納得せず、ついに
「たとえ都に上ったとしても、命を永らえようとは思いません。
それならば今ここで死んでこそ、妻の道と思います。」
と、守り刀を抜いて自害しようとした。

政親は怒って、それでも妻子の命を助けようと話を変えたのである。
「どこに夫の命令に背く妻がいるというのか。
今はただ、時間が惜しいので急げと言っているのだ。
物の数には入らないが、我が子供の時から手放さずに、身近に置いたものがある。」
政親はこう言って、琵琶と尺八を間近かに引き寄せて話し出した。

「尺八というものは、前漢の皇女である王昭君が匈奴に送られた時、都を恋い慕って嘆き悲しんだという声を学んで作ったという。
だから古人の詩に『無常の思いの曲はその思いを強くさせ、3千里の外まで届く』といって王昭君の歎きを演奏し、今はお前の涙を流させるのだ。
常に目の見える場所に置き、見るたびに慰めとしてくれ。

また、琵琶というものは、妙音菩薩が雲雷音王仏のもとに参ったときに、これを演奏して供養したと法華経にある。
だから琵琶には、心打つものがあるのだ。
大唐の白楽天も
「第一、第二の弦は低く太い音で、秋風が松の枝に吹く時のようにざわざわと響き、第三、第四の弦は高い調子で響き、夜の鶴がわが子を思って籠の中で鳴くように哀切な音だ。」と歌い、
わが国の『平家物語』にも
「風香調(ふごうちょう)の音調子は、花の芳醇な匂いを含み、流泉弾(りゅうせんだん)の弾き方は、月の清明な光を添えるようだ。」と記されている。
このため鬼神も琵琶による人間の祈りを受け入れ、人々も怒りの思いを和らげるのだ。
源氏物語宇治十帖には、光源氏の異母弟・宇治八宮の娘の大君が、琵琶を弾いて雲に隠れた月を招き戻したとかいう話も伝えられているだろう。」

政親のこの話に奥方も心和らぎ、そのうえ夫の命令に背く妻があるのだろうかという先の話を思い出し、しかたなく政親にあやまったのだが、互いの手に手をとって流水をせき止めても止めることができず、また枝から落ちた花は再び咲くことのない習わしであったのだ。
明け方の月は西に傾き、再び夜空の高みに帰ることもなく、袖を引いて名残を惜しみ、歌を詠んだのである。
「秋風の露の草葉を吹き分けて 同じく消しぬ身を如何せん」  奥方
「神懸けて末の世契る梓弓 引留むべき袖にはあらねば」  政親返歌

そして政親は悲しみの気持ちを押さえて、奥方を輿に乗せたのである。
「みどりのまゆずみ、紅の顔(かんばせ)、錦や刺繍の衣装に身を包み、御殿を出て胡人の砦に向う」とは、王昭君の別れの有様を歌ったものであるが、政親と奥方の別れもまたこのようではなかったかと思われ、死んだ愛妾の李夫人を忘れられずに返魂香を使って面影を映し出した前漢の武帝の心や、霧雲にけぶる雨を見ては霧雲や雨を司る巫山(ふざん)の神女と契ったことを忘れられなかった楚の懐王の悲しみを思い出されたことは、なんとも哀れなことであった。

お供の女房たち200余人も、親に別れ、子供に別れ、あるいは主君に別れ、夫にさえ別れてしまうことを嘆き悲しみつつ城の麓に向う姿は、哀れという言葉では言い尽くせないほどであった。
仲むつまじい夫婦の間も、荘子の言う一炊の夢の間であり、月を楽しみ花を愛するという生活も人生一時のことに過ぎない。
誰もがみな別れなければならない時が来ることは知っているのだが、いざその時になってみなければ、まさかあるとは思っていないものである。
再び会える時が来ると思うことだけを願い、奥方の乗る輿に従って、女たちは坂を下っていったのである。
政親も坂の途中まで見送っていたのだがその姿は、恋人が乗っている、任那に赴くために肥前国から大海に旅立った船に帰ってほしいと請い願ってひれ伏した松浦佐用妃(まつらさよひめ)の慕情さえ、越えるものではないかと思われるほどであったのだ。

さて、磯部聖安寺と木越光徳寺は、奥方をお迎えしようと城の麓までやって来ていたが、城から輿が出たのを見ると馬からさっと飛び降り、威儀を正して輿を受取ったのである。
そして磯部聖安寺は50騎ばかりで輿の先導を、木越光徳寺は輿の後ろに100騎ほどを連ねさせて、輿の供としたのである。

このとき木越光徳寺は、一揆軍の皆に以下のように話し聞かせたのである。
「我々も昨日までは富樫政親殿を国主の殿と仰いでいたけれども、今は敵味方に分かれてしまっていることは前世の報いであり、また民の人々を土くれのように扱ったために、我ら民は恨みを抱いたのである。
古くからの言葉に『虎が人を害しようとするとき、人はかえって虎を害しようとするものだ。人には罪はなく、罪は虎にあるのである。しかしながら虎は人を怨むであろう。』とある。

このようにお互いに敵同士になってはいるものの、君臣の道を失ってはならない。
馬に乗っている者は下馬し、武装している者どもは兜や陣笠を脱いで礼を尽くし、奥方の輿をお通しせよ。
万が一、お供の女房衆に向って無礼をしたり乱暴に扱ったりする者がいれば、すぐさま打ち殺すであろう。」
このように木越光徳寺は命令し、奥方を若松本泉寺まで送り届けたのである。

高尾城の戦いが終ってしばらくしてから、奥方は木越にある光徳寺に移され、数十日の間そこに留められて、その後、加賀越中国境の倶利伽羅峠まで木越光徳寺自身によって送られ、越中からのお迎えに渡したのである。
この木越光徳寺の計らいは、当時にあってなお、情けのあったものと評判を呼んだのであった。

越中にしばらく滞在された奥方は、この国を離れたくないと思っておられたのだが、かといって立ち寄るような親しい方々もいなかったので、京の都に向けて再び旅立たれたのである。
このときの旅では、改めて夫の政親を亡くした歎きを感じて、言葉に表わせないほどであった。

宋の蘇東坡の詩に「外国からの客を戻すとき、誰が目に留めようか。千里の道を征討軍に連れられて行く」
また杜少陵の詩にも「振り向いて夫である舜の名を呼び、青桐のような雲はその悲しみを増す」というところを思い出し、奥方は夫である舜に先立たれた妻の娥皇と自分を引き比べて歌を詠み、旅の慰めとしたのである。
「物思う泪(なみだ)や染る三越路(みこしじ)の 白根の嶽も紅の雪」

ある時は山谷の岩の間を通り、足を怪我しては一日物思いに耽り、またある時は野宿の際にホトトギスの鳴き声を聞いては悲しみを誘い、自分の影を見ては変わり果てた我が身を思い、白楽天の『長恨歌』にある一節を思い出すのであった。
「蜀の行在所(あんざいしょ)で月を見れば、楊貴妃との生活が思い出されて、月の色を見ても心が痛み、夜の雨に猿の鳴き声を聞けば淋しさに腸が絶たれる思いがする。」

山道を登って峠を越え、谷川沿いのけもの道のような小道を下るなど、何日もかけてようやく近江国に着いたのである。
有名な琵琶湖の水面は満々と水をたたえて白楽天の詩
「風が白い波を立てて幾千もの花びらが翻っている。山々はけわしく立ち並び、青い大空を仰ぐと雁が一行の文字を書くように並んで飛んでいく。」を思い出し、みすぼらしい舟小屋に泊まっては
「宴の華やかな灯火も尽きて、今はただここを旅立つ夜明けを待つばかり。木の葉は秋に落ちるものなのに、木の葉のような乗る舟は秋を待たずに去って行く。」の古詩を思い出すのである。

そして比叡山の麓、賑わう坂本の宿に到着し、飾り立てた牛車の出迎えもなかったので、ただやせ衰えたロバに乗って泣く泣く故郷の都に着いたのであった。
漢の朱買臣は貧乏をしたのちに故郷の会稽の太守となって故郷に錦を飾ったのであるが、今の奥方は袖を涙に濡らしつつ都に戻ったのである。
奥方にとってはもともとの故郷であったので、いろいろと旧知に会ってみたいと思ったりもしたのだが、さすがに都の人目もあり、『平家物語』の祗王祗女や仏御前が出家をしたという嵯峨の往生院近くならば、世をはかなむにふさわしいと考えられ、涙を流しつつ住みかとされたのである。

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