『官知論』現代語訳 その七



10 冨樫政親の奥方が城を出て京都に赴くこと(上)

生き残った軍兵は本丸を頼みとして立て籠もり、城主である政親が仰せられるには、
「明日は最後の合戦と思う。ここまで我についてきてくれた者どもには、この世の名残に酒を振舞おうぞ。」
と、重臣から中間、若党に至るまで、忠臣は2君にまみえずという言葉を重く受け止めている者どもは、みな御前に集まり、大瓶を立て並べて上下の礼もなく、舞い歌いつつ飲んだのである。

政親の奥方は、ふだんは人目を避けてつつましく過ごしておられたが、この酒宴の騒ぎに驚かれ、奥よりお出でになったけれど、殿の政親に質す言葉もなく、黙っておられたのである。
年齢はまだ老けるには早すぎるほどで、表は白地、裏地が青の柳襲(やなぎがさね)に5枚袿(うちぎ)という公家風の出で立ちに紅の裳袴(もはかま)を着て、甲斐甲斐しく振舞われるさまは大唐の白楽天が
「美しい2つの鬢(びん)の毛は、蝉の羽が透き通るような美しさに似ており、弧を描くあでやかな2つの眉は、遠い山の緑がけぶる様子にも似ている」と歌い、平家物語に
「桃のように愛くるしい顔は、隠すことなく微笑む」といい、絶世の美女である楊貴妃にも妬まれるほどの装いに、みどりの黒髪が微風になびき乱れるさまは、同じく美女の誉れ高い大唐の荘宗の愛した李氏にも怨まれるほどのお姿で、ほかに例えようがないほどであった。

その他、近習や外様の女房たちも共になって盃を指しつ指されつ、酌を交互にしているうち、酒宴も半ばになった頃、ある女房が美しい声で
「灯火が暗くかげり虞美人は涙を流し、夜が更ければ城外の4面から楚の歌が聞こえる」という詩を2、3度歌うと、末座に坐った女房も
「霜が降りて草が枯れようとする頃、鳴く虫の声も淋しい限りです。風が激しく枝も揺れ動いているので、鳥たちも巣をかけられないでいます。」と古歌を詠み、この座に列席していた人々は、みな我が身に重ねて涙を流したのである。

特に奥方はいろいろと話す風でもなく、ただただ涙を流してしおれており、薄絹の袂(たもと)が絞れるほどであった。
何のときでも別れというものは悲しいものであるが、これはまた衣が引き裂かれるほど特別なものであり、寝苦しい夏の夜を明かし、夜は長いと思う心こそ、実ははかないものであったのだ。
夫婦お互いの会話は途切れることもなく、寝室が建物の奥にあっても夢は覚めやすく、春の花の香りが着物の袖まで包み込んだのである。

ほどなく時が過ぎ、夜のとばりが上がろうとする頃、遠くの山寺で衝く鐘の音も、別れを誘っているようであった。
人に知られることもなく子を増やす笹を見ても、夜明けを告げる鶏の声までも恨めしく思い、短い夜はだんだんに明けていったのである。

老臣山河三河守は政親の御前に進み出て、次のように申し上げた。
「人間が命を棄てて大事に思うこと、百年千年の計略というものは、子孫をこの世に残す為であります。
このたび、ご主君が切腹されれば、奥方様、また幼い姫もともに、雲や煙のように消え果ててしまわれ、これでは末代まで人のあざけりを受けるでありましょう。
せめて幼い姫だけでも生き残られれば、親木が棄てられて枯れても、また新しい芽が息吹き、再び繁る時代が来ることでしょう。
城の北口を押さえている磯部聖安寺、木越光徳寺をなだめて、真心を持って頼まれれば、奥方様、姫君が京の都にお移り遊ばすことは案外できることかもしれません。」

政親はこの提案に、
「ともかく山河、はかって見よ。」と仰せになったので、承った三河守は、使者に書状を渡し、磯部聖安寺・木越光徳寺の陣に届けたのである。
書状を受取った木越光徳寺は、書記の丸代信濃入道に読むよう命じ、信濃入道は承って兜を脱ぎ、ひざまずいて高らかに読み上げたのである。

「遠くは過去を尋ね、近くは昨今を思うに、世の中というものは武士が真っ直ぐな心を持って国政を治め、庶民が日々の仕事にいそしんで営まれていくものであり、お互いに分を守っていればよいのに、考えもつかない勧めや誘いというものがあって国主に逆らうようなことをするのだ。
我が勇気を奮い起こして戦えば、瞬時にして勝つことさえ可能で、敵を北国の地から追い払い、理の当然として敵方の子孫や原因を絶ち、それ以上の騒動を防ぎたいと考えているのに、国内の民が蜂起して我を拒むことは、窮鼠が猫を噛み、争う雀が人を恐れないのに似ているというものだ。
しかしこれは現世だけの行いではなく、前世に原因があるのだろうから、改めて驚くべきことでもないのだ。

我も将軍家のご命令を頼りに思い、急使を発して隣国の軍勢に働きかけ、これ以上の合戦をとどめようとして近国の精兵を呼び入れようとしたのだが、遅れて日数を無駄に過ごしてしまい、とうとう昨日の7日、一揆の諸軍勢が集まってきて竜虎決戦のような戦いになってしまった。
この戦いは一揆の衆がとても強く、自分も両翼をもがれてしまい、屍を高尾の野原に晒すしかないであろう。

天の神が悪行と責め立てるのは、我1人で済むのだろうか。
自ら首を刎ねる時間は、刻々と迫っている。
こうなれば、武士として死後の恥をさらすことだけを恐れるしかないのである。
幼い姫を隣国越前の朝倉氏に預けたいのだが、縁故を頼って連絡しようと思っていても、包囲されてどうしようもない。

春秋時代の呉越の争いにおいて、越王勾践の后である西施は呉に献上され、わが幼い姫は加賀から越前に預けられる。
西施献上は越国の謀略であるが、我の場合は一揆衆に攻められているだけなのだ。
他に比べようもないくらい恥かしい話であるが、恥を忍んで磯部聖安寺殿、木越光徳寺殿、ご両所の慈悲の心を頼むものである。
聞き届けてくだされば、現世来世の2世にわたる恩義は、これに過ぎるものはない。
わが心の中は、以上のとおりである。恐惶謹言。
  6月8日                    政親(判)
 磯部、木越 両陣あて」

聖安寺、光徳寺の両人は、この手紙の内容について間違えることなく諒承した。
「それでは返事を書き上げよ。」と、木越光徳寺が命じたので、信濃入道は文才がないとお断りしたのだが、許しがもらえずに返事を認めたのである。
高尾城からの使者はこの返事を受取り、城に戻って政親の前に捧げたところ、
「槻橋三位坊、その手紙を読んでみよ。」と家老の1人である槻橋三位坊を指名したので、彼は具足をつけたまま御前に進み出て、以下のように読み上げたのである。

「中国の秦嶺が雲を従え、同じく藍田の関門が雪に埋もれて、手紙を往復することもできないほどの時と所であるのに、西王母の使者の青鳥のように手紙を届けて下された。
わざわざ我らを顧みていただき、ありがとうございます。

さてそもそも、武力と知略をもって国を危うくする悪人を討ち、優しくおおらかな政治で片田舎の民衆をも慈しむことは、国を治めて民を安心させる基本である。
しかし国主殿は、逆に厳しすぎる政治を行い、古来からの慣習を無理やり変えようとしている。
自分たちの仲間内だけを考えて、邪まな者どもを集めてもいる。
このため、人間としての格もないものが尊ばれており、この連中が国主殿の威を借りて、国内あちこちで問題を起こし、私欲による狼藉を重ねて勝手な振る舞いを繰り返している。

これは一体、どういう謂れのもとに行われていることなのか。
曲がりくねった木には、曲がりくねった影が映るのだ。
誰もがそう思っているのに、国主の勢威を恐れて、草木でさえも頭を垂れてしまっているのだ。
だからこそ、ここ当分の間は加賀の国内も静かに見え、安泰なように感じられているだけであるのに、どういう考えでわざわざ将軍家に讒訴して幕府をわずらわし、隣国さえ巻き込んで庶民を滅ぼそうという暴挙に出ようとしたのか。
我らが何か怠ったというのか、我らに何か恨みでもあるというのか。
武士どもの噂と言い、富樫家の滅亡と言われるが、そう言われる理由がないことは、口頭でも文章にしても伝えようがないくらいだ。

また、我らが仏僧の姿をしていながら武士のように合戦を行うことは、我らの本意ではない。
ただ、酷い政治を行う者どもを、討ち果たそうと思っているだけである。
だからこそ民衆の寄合にも黙ることなく、彼らを引率して来たのである。

このような我らの事情において、幼い姫君を他国にお移しすることの許可を求めてこられたので、了承したことをすぐさまお伝えしよう。
ゆめゆめ、我らを騙そうとは思わないことである。
我らもいったん承諾したからには、心変わりすることはない。
ほかに申し述べようと思うことがあるけれども、ここではくどくど書くことはしないでおこう。誠恐誠惶謹言。
  6月8日                    磯部聖安寺 木越光徳寺(判)
 富樫のお奉行中あて」

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