『官知論』現代語訳 その五



7 一揆の者どもの軍議のこと

翌日早朝、一揆軍の大将である富樫泰高はじめ各陣の諸将は、野々市大乗寺に打ち集まり、軍議を開いたが諸説まちまちであった。
そこで洲崎和泉入道慶覚が進み出て、次のように申したのである。
「この高尾城は、単純な力攻めでは落とすことはできまい。力攻めにするならば、人馬の死骸を山と築き、戦いで流れる赤い血は川のように流れるだろう。
しかし四方八方より軍勢を詰め寄せて城の糧道を絶ち、5日も10日も日を送るならば、城の軍勢は飢え疲れた武者になり、たまりかねて里へ押し出してくるであろう。
そうなれば多勢に無勢で、味方で十重二十重に押し包み、死ぬの生きるのを問わずに攻めかかれば、ただ1戦に勝負は決しよう。
ことに明日あさっては、陰陽道で言う天一天上日であり、方角から見て高尾城攻めは凶に当って日が悪い。」

すると木越光徳寺が左右を顧みずに進み出て、
「洲崎殿のご意見はもっともであるが、愚僧の意見は異なる。
その理由だが、兵糧の途を絶たれることは、場合によっては有効であろう。
しかしこの戦いにおいては、その計略は当るとは思えない。
なぜなら、これほどの大事を思い立たれるほどの政親であれば、たかだか5日10日にて軍勢が飢えるようなことをされるだろうか?
これが愚僧の賛成しがたいその1つである。

次に戦いを長引かせるのは、味方の損害を少なくするという、大事に大事をとってのことである。
越前越中の両国に、すでに将軍家の命令書が出ているということは事実であり、うかうかしていると味方の後方をおびやかされてしまうことは間違いのないことだ。
そうなれば、ここに集まったあちこちの故郷に火を放たれ、その煙が四方からただよってきて城方に気づかれてしまい、敵は力を得て味方は途方に暮れ、動くことさえできなくなってしまうであろう。
これが2つめである。

次に吉日を選ぶことは、お釈迦様の教えにはないということである。
『維摩経』にも「善悪は二つのものでなく、正邪も本来は一つのものの如し」とあり、方角を占う時には「本来、東西はなく、どうして南北があろうか」と唱えているではないか。
そのうえ『涅槃経』に「如来の法の中に吉日を選ぶということはない」とあって、仏教を信仰している者が吉日を選ぼうと申されることは、教えに外れている。
これが三つめである。

ここは運を天に任せて命を仏法に捧げ、皆ともに討死する覚悟でひたすらに攻めれば、1両日には攻め落とせるのもありうると思うのだ。
急ぐかそうでないかは、場合によって考えるべきである。
他の者はどう思うか知らないが、愚僧においては、翌日の夜が明けきらないうちに攻めかかって死骸を城の麓にさらし、あとあとまで名前を北国の世に残すべしと存ずる。」
と、心のうちをはばかることなく申されたので、居並ぶ諸勢もこの意見をもっともであると賛成したのである。


8 越中の援軍が一揆に破られること

そうこうしていると越中国境から急使が来て、次のように知らせがあった。
「越中国の砺波(となみ)・射水(いみず)・婦負(ねい)・新川(にいかわ)4郡の守護代らは、将軍家の命令書を受取っても、加賀越中両国は唇と歯のように関係が深いもので、『唇亡べば歯寒し』と言う。
どうしたらよかろうかと寄り集まって話し合いましたが、将軍家からの催促が矢のように来たので、攻めかかろうということになりました。
東郡である新川郡の諸勢は浜手の放生津(新湊市)に布陣し、中郡である射水・婦負の両郡の軍勢は吉江(よしえ)・白沢(はつざわ)に陣を開き、砺波郡の軍勢は北陸道の倶利伽羅峠登り口である蓮沼(小矢部市蓮沼)に押し寄せました。
総勢3000余騎にて守る一揆勢を3重にも4重にも取り囲み、我ら一揆軍は籠の中の鳥、網に捕らえられた小魚のようなものでした。

ここに、もと加賀の住人で、かつて富樫幸千代殿の部将であった阿曾孫八郎盛後(俊?)、小杉新八郎基久という2人は、
「我らが仇である。1番合戦をしてくれよう。」と、2000余騎の軍勢を率いてがむしゃらに攻め寄せてきました。
この軍が倶利伽羅峠を越えようとするところを、河北郡の英田光済寺(あがたこうさいじ)を大将とする5000余騎が魚鱗・鶴翼の陣を張って四方八方から攻めかかり、それはあたかも竜虎の激突のようでした。
それで越中勢2000余騎を700余騎まで討ち果たし、ついに退くところを追いかけて1人も残さず討ち取りました。
その他の越中勢は、戦いを仕掛けてくるわけでもなく、倶利伽羅峠の敗戦を聞いて引き上げましたのでご安心ください。」
そして証拠として、血筋正しそうな武者の首を30桶ばかり送ってきたのである。

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