『官知論』現代語訳 その四



6 一向一揆の諸軍勢が布陣すること

「四ヶ寺」の大坊主たちは皆ともに、僧侶の証である剃った頭に堅い意志の兜をかぶり、出家の証の袈裟を脱いで民の歎きを退ける鎧を着用し、仏敵を懲らしめる刀を腰に差して、魔を退ける弓矢を背負い、同輩や若者を集めた軍勢すべて4万余騎を率いて、高尾城の北の伏見、山科、また犀川の北の浅野、大衆免(だいじゅめ)に布陣させたのである。

ここで白山宮と、鶴来の町の名の由来となった金劒宮(きんけんぐう)の衆徒たちは、以下のように会議を催した。
「加賀1国の大事は、まさにこのときである。国が乱れて民の家々が亡んでしまえば、古代から連綿と続く我ら両社と言っても、無事ではすまない。
民は国の根であり、君主は国の葉に過ぎない。ここは国の根本である民に味方しよう。」
このように両社は決し、高尾城の真西2kmばかりの地、野々市の南にある矢作の藤岡諏訪神社あたりに3000余騎を並べたのである。

一揆軍の本隊は洲崎和泉入道慶覚、その息子である十郎左衛門尉久吉、河合藤左衛門尉宣久、湯涌谷(ゆわくだに)の石黒孫左衛門正末らを大将として、1万人余りが久安砦を出て上久安に布陣し、石川郡笠間の笠間兵衛家次は、皮革作りを正業とする衆7000余人を率い、野々市の一角にある馬市の広場に布陣した。

石川郡本吉湊近くの安吉源左衛門尉家長は、手取川の水運を担う河原衆8000余人を寄せ集めて、高尾城の南口である額(ぬか)口に陣を構え、山本円正入道祐賢は浅野川下流の同輩10人と組を作り、1万余人を集めて山科の山王林に布陣した。

高橋新左衛門信重は、犀川河口の大野庄を中心とする六ヶ組の兵5000余騎を率いて野々市押野の山王林に布陣し、白山麓の石川郡山内庄の鈴木右京進・三池掃部ら、山八人衆と呼ばれる土豪軍、同じく白山麓各地にある白山本宮・三宮・金剛宮・別宮ら四山の軍勢、山内庄の諸勢は合わせて近在の山々また峰々に隙間なく満ちたのである。

このほか能美郡から集まってきた軍勢は5万余人、野々市の諏訪神社の森に陣を定めた。
それぞれ陣幕には思い思いの紋をつけ、色を違えた旗印を立てた様子は、ひしめく旗は雲になびき、打ち立てた刀は林のように群れなしていた。
のろしの煙はあちこちに上がって春霞のようにただよい、各陣の篝火は夜の星が輝くほどに多かった。
三国志の時代に諸葛孔明が開いた八陣や、中国の戦国時代七雄の軍と言えども、これらの軍勢には勝らなかったであろう。

このように一揆勢の陣が整った頃、6月5日の午後4時頃、高尾城から1人の騎馬武者が駆け下りてきた。
これは誰であろうと一揆勢が注目すると、彼は能美郡本江の侍、本郷修理進春親であった。
その日の装束は、紺黒糸の腹巻に肩は白糸で威し、裾の金物は重々しく飾らせ、胸板も同様に、大鍬形をつけた星白の兜を太い首の後ろに掛け、黄金作りの腰刀は銀輪で吊るした太刀をひっさげ、背には鏃(やじり)をむき出しにした矢筈(やはず)を負い、漆で塗りこめた籘巻きの弓をしっかりと握り、紅の母衣をかけて、白葦毛の馬に金を嵌めた鞍を乗せて跨り、家来の者に楯を持たせていたのである。

城戸を開かせて堀にかけた板橋を粛々と渡り、一揆の本陣近くまで馬を歩ませた本郷修理進は、鞍の鐙(あぶみ)を踏ん張って馬上に立ち上がり、大音声で一揆軍に呼びかけたのだ。
「皆々、我を見知っているだろう。このときに1騎で駆け出してきた意味を語り聞かそう。
お前たちはご領主の治める土地に住みながら、仏法ばかりによりかかり、そのため年貢課役も納めていない。
それどころか、国主たるご領主を倒さんとするのか。言語道断の行いであるぞ。

いにしえの伝えにも、中国は周の建国に際して、その政治を嫌った伯夷叔斉の賢人でさえ、野に生える蕨を摂りつつも、終には餓死してしまったのだ。
このような例が、末世の今でも伝えられているのだ。
そもそも、国主である富樫氏のご先祖を尋ねてみれば、語るも恐れ多いことながら、お前たちに語って聞かせてやろう。
謹んで拝聴するがよい。

北斗七星の化身である藤原利仁将軍のご子孫として、源平の戦いに名高い仏西入道富樫家国様以来、弓矢を取っては代々汚されたことはないのだ。
特にご当主の政親様は、文武2道の達人、武勇また知略を兼ね備えた賢者であり、足利将軍家の御心にかなうことは、無双と言われているのだ。
このような貴いお方に向って、弓を引き矢を射ようとするのは、地獄の閻魔王も許しはしないであろう。

治められるべき民がご領主に逆らうとは、臣下の礼とは言えないのだ。
急いで兜を脱ぎ、古書の例のようにイバラを負い、自らを縛って我らが前に降参せよ。
そうでなければ明日にでも首を刎ね、その首を獄門にかけてさらし物にしてくれよう。」

このののしりが終って間もなく、久安の本陣から武者が1騎、駆け出してきた。
萌黄糸威しの腹巻に、同じ色の5枚錣(しころ)の兜をかぶり、110cmを超える長大な厳めしく飾った太刀の鞘を熊の皮で包み、これを長い紐で引っさげ、黒く塗りこめた矢を高く背負い、籘を重ね巻きした強弓を持ち、たくましく烏のような黒馬に、金銀粉を蒔いた沃懸地(いかけじ)の鞍を載せて房をつけた出で立ちで、ゆったりと跨り、陣幕を投げ捲って馬の腹を強く蹴り、足早に出てきたのである。

この武者はしゃがれた声ではあったけれど、大音声で高らかに名乗りを上げたのだ。
「我は河合藤左衛門宣久であるが、ここに集う国中の面々を代表してご返事申し上げる。
そもそも諸勢が陣を構えたことは、それがすぐさまご領主に敵対するというものではない。
我ら自身の命を救い、将来の訴えをご領主殿に仰ごうというものである。

古書に『国を治めるにあたって平らかで真っ直ぐであれば、民はこちらから招き寄せなくても自ら慕ってくるものである』という。
このようであれば、賢人は遠い国からもやって来るし、邪まな者どもは国境を越えて去るのである。
政治が酷いときは、刑に使う鞭を切り、何度も諌言を繰り返すのである。
ささいなことを怠ったと無理やりにこじつけ、あら捜しをされるからなのだ。

これに加えて国主の権威をひけらかし、田畑を耕す農民の牛を奪い取り、飢えた者の大切な食物を奪い去るようなことをされれば、民衆が嘆くのも当たり前であろう。
古書に『疲れた馬は鞭を恐れず、疲弊した民は刑罰にかけられることを恐れない』とあるとおりで、上に立つ者の政治が悪いために下にいる民は恥を知らないのだ。
君主が無礼のゆえに、しもじもは礼儀がすたれるのである。

次に仏法のことである。
貧困にあえぎ、罪深く意志の弱い我らは、高僧の言われる難しい修行には耐えられないのに、それでも1粒の米を半分に割って仏に捧げ、悟りへの道しるべとして、小さくても末法の世に灯火をともすのである。
これは年貢をかすめ奪って、死後の冥福の助けとしているのではない。
それなのに重罪だと言いつのり、止めさせようとされることは、現世と来世の2つの世界にわたる、怨むべき敵である。
これが、民の歎きの1つめである。

次に、このことに至った初めに戻って考えてみたとき、これは政親公の真の思いから出たのではない。
邪まな者の讒言を信じて、賢人の諌言を聞かないからなのだ。
論語にある『水が沁み込むようにじわじわと深くに届く讒言、肌についた傷をいかにも深刻ぶるような訴え』というものを、しっかりと聞き分けることができなかったことこそが愚かなことなのである。

大唐の政治指南書である『貞観政要』にも、『蘭が繁ろうと思っても秋風がこれを妨げ、王が正邪を明らかにしようと思っても、讒言を述べる邪臣がこれを覆い隠す』とあるのは、まさにこのことである。
讒言を言う者は国を破滅させ、嫉妬に狂う妻は家を失うという理屈は、当たり前のことなのだ。

我々が願うのは、民の歎きを聞き届け、そば近くにいる讒言を述べる者どもを追放され、真っ直ぐな気性で私心のない賢人を用いられれば、今からでもすぐに急いで連名書を提出し、兜を脱ぐであろう。
このような各郡からの訴えをお取り上げいただけば、改めて言うべきことでもないが、お屋形様を国主に、山河三河守を守護代にさせておいてもよかろう。

もし、これらをご承諾されないときは、遠慮してゆっくりではあっても高尾城に攻めのぼり、政親殿の一生は今日明日の間に尽きるであろう。
恐れながら、我らのこの思いを、国守殿はじめ屋形内の方に申し上げる。」

河合藤左衛門宣久がこのように言い置いて、馬を返そうとしたところ、城中よりこの様子を見ていた者たちが、
「春親を討たせてはならん。続け、者ども。」と命令を下し、完全武装の武者50騎ばかりが駆け出してきた。
また久安の本陣からも、徒歩の兵たち100人ばかりが出てきて、互いにさんざん矢合せをしていたところ、夕日が傾いて赤い太陽が西の海に沈もうとしたため、本格的な戦いは明日からと、互いに呼吸を合わせたように、さっと軍を引いたのである。

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