『官知論』現代語訳 その参



5 一揆の者どもが要害を構えること、また、仏法の怨敵の物語のこと

かくして一揆衆がこぞって訴えたことは不調に終わり、一揆の人々はあちこちで寄合を持ち、また集まって次のように相談をしたのである。
「このままのんびり手をこまねいていては、飢えた虎に肉を与えるような悪運を招くので、後回しにするようなことはすべきでない。
こういう場合はまず定石どおりに城砦を構えて、とりあえず守護方の攻撃を避け、何日か日数が経てば守護殿の考えも変わるであろうよ。」

そこで須崎和泉入道慶覚・河合藤左衛門宣久を大将として、野々市守護所と高尾城の間にある上久安(かみひさやす)という場所に大急ぎで砦を作ったのである。
そして一揆の中の若者ども500余人を中に入れ、昼夜を通じて守護方の出方を窺っていたのだ。

去年の12月から本年の5月に至るまで、互いの先鋒が対峙し、両陣の間はわずか2km余りを隔てるのみで日を送っていたところ、越前と越中の両隣国で「足利将軍家のご命令を頂戴したからには、急いで加賀に派兵し、富樫政親を助けよう」と話し合われているという噂が、風のように流れてきたのである。
国中から集まってきた一揆衆の中にもこの噂は広まり、驚いて会議を開いたのだ。

「その昔、中国は春秋時代のこと、呉の忠臣である呉子胥(ごししょ)は、不倶戴天の敵である隣国の越が興隆するのを見、呉王・夫差に諌言していれられず、自分の眼を抉り取って越の方を向いている東門に掛け、呉を滅ぼす越軍の侵攻を見たという故事がある。
このような先人の誤りを聞きながら、何もせずに後手に回れば、越前口、越中口、そしてここ高尾城と、3方の敵を相手に防戦することになってしまい、これは敗北してしまう。
ここは獅子身中の虫である高尾城を、まず攻め落とさなければならない。
そうすれば富樫救援の両国勢も、あきらめて退却していくだろう。
まずは防御の軍を送り込もう。」

軍議はこのように決し、北加賀の河北郡から集まってきた軍勢を越中口に向わせ、越中国境との要・北陸道の倶利伽羅峠、その北方にある間道の笠野、同じく南方にある松根の要衝に陣を構えたのである。
また越前国境では、南加賀の江沼郡の諸勢を南に向わせて、北陸道が国境の山間部を抜けたところにある敷地(しきじ)、また同じく福田の地に陣を構えたのだ。
これは5月26日のことであり、国中の一揆衆の諸勢はそれぞれの場所に赴き、陣を敷いたのだ。

高尾城攻めでは、まず守護富樫政親の大叔父である富樫泰高を加賀守護に奉ったので、泰高は家来郎党2000騎を引き連れ、守護所の近くにある、富樫家菩提寺の野々市大乗寺を本陣とした。

津幡鳥越の弘願寺(ぐがんじ)、犀川河口近くの吉藤にある専光寺、浅野川下流の磯部にある聖安寺、河北潟南岸近くの木越にある光徳寺は、本願寺外様の地元大坊主として「四ヶ寺」と称していた。
この彼ら大坊主が、1ヶ所に集まって話し合った。

「かつてその昔、西方でお釈迦様がご誕生になり、菩提樹の下で21日間の瞑想に入られたとき、従兄弟の提婆達多(ダイバダッタ)が500人の信奉者を率いて押し寄せ、お釈迦様を害しようとしたときに、お釈迦様に向けた弓矢や刀が自分達に戻ってきて、自分たちの身を害することになり、みなことごとく自滅してしまった。

また中国において、大唐の則天武后が会昌の破仏と呼ばれる仏教弾圧を行ったとき、インドからもたらされた仏像のある清涼山を滅ぼそうと軍勢を集めて攻めたところ、清涼山の仏僧たちが合戦してこれを防いだこともある。
わが国においても、聖徳太子が仏教に反対する物部守屋を罰して滅ぼした。

これらはみな仏法において、提婆達多のような悪魔の企てを罰したことで、数え切れないほどの例がある。
我ら専修念仏の仏法は、お釈迦様入滅後の末世において、まさに相応しい要の教えであり、末世に暮らす我ら愚かな僧や尼が現世において念仏という善因を行い、必ずくる来世の苦役を免れようとするためのものである。

これは年貢課役などの公的な負担をないがしろにして、自分たちのみの気持ちを優先させたのでは、断じてないのだ。
それなのにこれを大罪であると言いつのり、罪に陥れようとする守護のやり方は、仏法にとって大敵であり、ご政道の法に照らしても怨むべき敵である。
これは絶対に倒さなければならない。」
彼らはこのように話し合い、結論づけた後に散会したのである。

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