『官知論』現代語訳 その弐



4 一揆の者どもが政親に詫びること、また、山河三河守が政親を諌めること

このようなありさまを見た国中の一揆の者どもは、富樫政親の重臣である山河三河守高藤に連絡をとり、次のように何度も嘆願したのである。
「14年前の文明6(1474)年のこと、富樫のお屋形様が白山麓の山内から出撃されてから後、国中で門徒を排斥弾圧されることが続いて、我ら民は心休まる暇がありませんでした。家を焼かれては山野に野宿し、土地を追い立てられて、やむなく砦を築いたこともありました。

そのようにしておりましたので春の耕作もままならず、したがって秋の取り入れも少なくなってしまいました。
このようなことがあったので、年貢の完済もままならず、将軍様が諸国にかける諸税も納めることができなかったのです。
これらは私どもの怠慢によるものではなく、公職である守護殿に原因があるのです。
この事情をお聞き届けいただき、広い心でお許しいただければ、我らはいっそう奉公に励むことでしょう。」

これを聞いた山河三河守は、この話を政親に言上し、殷の紂王を諌めた名臣・比干や大唐の太宗に諌言した張蘊古などの故事を引いて、政親の殿に諌言申し上げたのだ。

「民と言うものは国の基となるもので、これらを退治されようとすることは、国の枝葉である我ら武家も立ち行きません。
正義の心を持って国を治め、邪まな欲を捨て去って民を慈しむことは、ご政道の安泰や天下の平穏を導くものです。
ですから古書にも『義が欲に勝るときは、その国は自ずから治まり、欲が義に勝るときは、その国は必ず危うくなる』と言い、『政治が真っ直ぐであれば庶民はこちらから言わなくとも路を譲り、民草は鼓腹撃壌する』と言うのです。

それが邪まを主とすれば、賢人と讃えられた比干が胸を切り裂かれ、宮廷に参内した者が脛を切られるような、殷の紂王の世のようになるのです。
本当に人を殺す刃というものは、人の口から出てきて、人を傷つけるものなのです。
自分を害する種というものは、自分自身の中から出てきて、自分でこれを蒔いているのです。

『聖王は賢さをもって宝とし、珠玉をもって宝とはしない』と強く教えられているのに、そうではなくして邪欲を持った口先だけの者を要職に挙げて、朝な夕なの折々の話の中で、こちらに珍しい宝物があります、あちらに名物と言われる宝がありますなどと申し上げるのを取り上げられて、それは手に入れたいなどと仰られて身の丈に過ぎた金銀を費やし、またそれを世話した褒美と称して、そのような輩にも綾錦や太刀などを賜っておられます。

私は、たまたま重臣としてご政道も考えさせていただいており、もし殿に意見を取り上げられることでもあれば、諌言申し上げよと同輩にも言われているのに、邪まな者が常にお側近くにいて、『小人にはわからないことです。大人物である殿には、秦の始皇帝ほどの英雄ふうに振舞われるのがちょうど良いのです』などと、かえって誹謗されてしまい、それ以上お諌めする者もいないのです。
ですから邪まなことは日々増していくばかりで、善いことは月を経るごとに少なくなっているのです。

『功なくして賞するのは相手を富ませるだけで、わざわいの元となる』などと申します。
また『君主が家臣を土くれのようにしか見ないときは、家臣の方は君主を賊や仇のように見る』と、いにしえの孟子も言い残されています。
邪まな人物が政治に参加していれば、賢人はそれに参画しようとしないものなのです。

わが殿もこれからは邪臣をしりぞけ、広く優しい心で政治を行われれば、賢人は自然に集まって来ましょう。
『賢人を信じて腹心の者とすれば、民は自分の手足のように仕える』ようになれば、万民は君主の恩を感じて、今の憤りもすぐに収まりましょう。
ここのところをよくお考えになって下さい。

殿がお若い頃、白山麓の山内にお引き籠られていたとき、民は一揆を結んで殿を政治の表舞台に押し出し、幸千代殿との戦いでは何度も戦功を立てて殿に尽力し、加賀の国主として仰ぎ奉ったことは、一揆の恩ではないのですか。
このような大きな恩義をお忘れになり、小人のうわべだけの言葉を信じられて民草の歎きをお聞き届けなければ、加賀国や富樫のお家を栄えさせるという武家の望みは遂げられません。

恩義を受けてその恩を顧みなければ、野草を食べる鹿が草を踏みつけて、枝に巣をかけた鳥がその木を枯らしてしまうことと変わらないではないですか。
前非を悔い、あとは先人の賢言に従えば、箱と蓋がぴったりとはまるように善行の報いが余慶として、富樫のお家に満ち、世の栄華を長く子孫に伝える基となるでしょう。
もし、四角い箱に丸い蓋をするようなことをされれば、目先の小利を貪って、後の大害を顧みない者どもと同じでしょう。」

山河三河守はこのように筋道を立てて故事古伝を引き合いに出し、富樫の殿の着物の裾を引かんとするばかりに諌めたのだが、ついに政親が頷かれなかったことは、忌まわしくも情けないことであった。

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