『越登賀三州志』 その4 注釈k

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野々市

古くは「布市」と言われた。
私がかつて『菅家文章』を読んだとき、その第1巻に「菅公が神に祈って越州に到るの詩」があり、その漢詩の中に
「副え馬が疲れて布水を嘆き、老いた下男は綿の山道に困る。」の連句がある。
考えるに、布水は布水川、綿の山道は能美郡の和田山だろう。

永延年間(987〜989)、富樫氏7代家国が政庁をこの地に置いて以来、布市をもって野市としたが、それより後、なお古名を使い、しばしば布市と書かれてはいる。
これは白山本宮の『三宮古記』の文和3(1354)年の記事に見える。
その後、誤って野々市と書き、これから戦国時代に入って文章を知らない者どもが誤ったまま使い続けてきたのだ。
野々市の2番目の「野」は、おそらく助詞の「の」であろう。


富樫氏がかつて根拠としたと伝えられる遺跡が2ヶ所あり、地元の者たちはその1つを「御館跡」と呼んでいるが、それはすでに田んぼになっている。
もう1ヶ所は「御倉跡」と呼ばれ、今は竹やぶとなっている。
また政親の家老である山川三河守、その子の又次郎の館跡は、大乗寺開祖の徹通義介の墓あたりということだ。


政親が戦死した後

富樫家譜に長享2年、笠間兵衛家次が賊衆を率いて野々市の馬市に進駐したといい、また、宇津呂備前が賊衆を率いて野々市諏訪の林に集まったということがあった。

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