『越登賀三州志』 その4 注釈j

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高尾

富樫庄にあり、高尾村(現金沢市高尾町一帯)領の山だ。
『類聚国史』第180巻・仏道部に、承和6年3月庚戌、加賀国高尾山寺真言別院と記載されているのは、この高尾山中にあった古寺なのだと思われる。
そうなると高尾の山名は、名づけられてからすでに1000年になろうとしていることになる。
この高尾を『太平記』には多胡と書き、『七国志』には田江または高雄と記しているが、それらはみな、この城地のことだ。
この遺跡は今数百年を経て、本丸、二の丸、三の丸などの遺構もはっきりとはわかっていないが、歴史書に記載されている城跡のため、今はその跡を詳しく正して記録しておく。

そもそもこの城山の通路は、平野部から行くと高尾村からの登り口、額谷村(現金沢市額谷町一帯)からの登り口との2路ある。
背後の山間部を抜ける道路は、坪野村(現金沢市坪野町)への山道が1本通っている。
今ではどれも狭く険しい非常にでこぼこした小道が続く小山だが、城跡の高さは70間(約126m)ほどで、これを間近から垂直に測量すれば、33間(約59.4m)だという。

城跡の中に5、6尺(約150〜180cm)ほどの高低はあるものの、だいたいにおいては平らなところが多い。
南西から北東にかけて、長さは100間(約180m)あまり、幅は広いところで20間(約36m)、北東部の狭いところでは11間(約19.8m)ある。
その下、1、2段低いところに8間×40間(約14.4m×約72m)の平地があり、そこから高尾村に下りる道が通じている。

また、この城跡の南西部は1段高くなっており、南東から西にかけて24間(約43.2m)、南東から東にかけて14間(約25.2m)、南東から北西まで18間(約32.4m)、北西から西にかけて9間(約16.2m)の1区画があり、これより北東方面に枯れ池があって、低地のために湿っている。
その枯れ池の南東に18間(約32.4m)、北西に6間(約10.8m)、北東に7間(12.6m)の1区画があり、城の背面は断崖となっている。

城谷川が城の背面から右側に流れて高尾村に至っている。
この流れは小さいために、城の水としては不便であり、だいたいにおいて十分な城地とは言えない。

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