『越登賀三州志』 その4 注釈e

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松田次郎左衛門

本源寺の家老だという。
『加邦録』などに、今の奥村河内守の屋敷から出羽町にかけての土地を居城とし、松山寺あたりは二の丸、成瀬内蔵助宅あたりは三の丸つまり搦め手の、細長い縄張りだった。
今の八坂道はその頃は馬場で、そばの堀は馬を洗うために作ったという。

松田は洲崎慶覚坊と仲が悪く、後に洲崎が松田をだまして酒宴に招き、米泉で彼を殺害し、松田の砦も攻め落とされた。
松田には妻子があったが、家来の三右衛門が守って越中国に脱出させ、荒木という所に隠し住まわせた。
その子孫の荒木六兵衛(一書には小右衛門)に至って、前田利家公が越中国へ進軍された際に出会い、天正17(1589)年、城端城にて1000石を頂いて仕官した。
これが今の荒木善太夫の先祖だという。


松田の家には聖徳太子の古像があり、後年これを石川郡田井村の道場に安置して今なお残っており、毎年2月22日には祭を行っている。

訳者注:『石川県姓氏歴史人物大辞典』には、荒木善太夫は摂津国の有力大名・荒木村重の息子で、越中城端城主だったのが天正19(1591)年に前田利家に仕えたとある。

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