『越登賀三州志』 その4 注釈c

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越中国の勝興寺

今は越中国射水郡古国府(現高岡市伏木古国府町)にある。
文明4(1472)年、蓮如が越中国に来て、砺波郡蟹谷庄の土山(現砺波郡福光町土山)と新川郡動清水村との2ヶ所に堂を建てて説法した。
その頃、蓮如の2男の蓮乗をこの寺堂にしばらく置いて住職とし、その後、蓮如4男の蓮誓が住職のとき、寺を越中国安養寺村(現小矢部市安養寺)に移転させた。
その6代目顕栄、7代目顕幸のとき、戦乱に遭って安養寺村を離れ、あちこちに移転した後、佐々成政に寺地を乞い、守山の麓で今の古国府の土地を得、寺院を再興して勝興寺とした。

越中国における浄土真宗本願寺派のまとめ役で、配下の末寺は今なお400寺ある。
私が考えるに、顕栄は細川晴元の婿であり、顕幸は朝倉義景の婿である。
今ここに勝興寺と言うのは、住職が顕幸の時代に建てたものだろう。


加賀国二俣本泉寺

嘉吉元(1441)年、本願寺巧如の3男・如乗が開基の寺だ。
また、宝徳年間(1449〜1452)に蓮如が3年間居住し、その跡が今なお残っている。


砺波郡の半分を本願寺領とした

慈雲寺本に、
「一書に、この時、加賀能登2国の年貢はことごとく本願寺へ納められたという。
あるいは、越中国守護の畠山政長と子の尚順は、ともに京都にいたといい、また、この時、畠山義元が越中国に在国して加賀・能登・越中国の政治をみたが、賊の勢いに抗しがたく、能登国鳳至郡の穴水に脱出して賊を避けたというが、これらは間違いだ。」
とある。

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