『越登賀三州志 ケンコウ余考』 第5巻 賀越能三州の土寇蜂起し、富樫氏が社稷を失う その4
これより先、足利将軍家から隣国越前の武士たちへ加賀援軍の御教書が下されたのだが、賊軍が援軍の通路を塞いでしまっていたので越前軍の大将たちが軍議を開いて進軍の道を話し合っていた。
その場において、一揆の諸賊が高尾城を攻撃しているとの急報を聞いた堀江中務丞景用、杉若藤左衛門、南郷某と連合して鎧武者若干を率い、馬を駆って加越国境の江沼郡橘に至った。
そのとき賊の大将の安藤九郎、金森玄英入道が賊軍を率いて大聖寺山から越前軍に攻撃を加え、その上に高尾城もすでに陥落して政親も自殺したという話が伝わり、越前軍は退却しようと軍を動かそうとしたところ、江沼郡の賊衆があちこちから蜂起し、橘あたりで合戦となった。
このときから加賀国はこぞって土寇の寄り集まる土地となり、賊の大将である洲崎入道慶覚坊、同十郎左衛門、河合藤左衛門、安吉源左衛門、山本円正、高橋新左衛門などが先に記した大坊主と語らい、国内の浄土真宗高田派の諸寺院を破壊し、河北郡の大坊だった磯部勝願寺は賊徒を率いて能登に攻め入り、能登国の一部も本願寺の持つところとなった。
また越中国の勝興寺は、加賀国二俣本泉寺を引き込んで近在の地元武士を追い散らし、砺波郡の半分を本願寺領とした。
かくして加賀国の山崎山に1寺を造営し、これを本源寺と号し、一揆の地盤を固めた。
その門徒は非常に多く、土賊は本源寺を尊んで「御山」と称した。
この寺を牙城として、近くの田井の砦に松田次郎左衛門、高垣に樋口某、石浦に石浦主水、椿原に左近将監、石名塚に何某と、おのおの砦を構築して本源寺の周囲を固めた。
また本願寺より下間筑前を下して国務をつかさどらせた。
その他、賊将の洲崎慶覚坊は泉野にあり河合藤左衛門は久安にあり、富樫泰高は守護とは呼ばれるものの、驕慢な賊のために勢威を失い、加賀国守護としての仕事は一切できなくなってしまった。
参考 越登賀三州志 古墟考 第4巻 加賀石川郡
倉岳
富樫氏は、ふだんは野々市の館にいるが、土一揆が起こればこの城に立て篭もり、その険阻な地形によってこれを防ぐため、加賀では俗に「富樫隠居城」と呼ぶ。
長享2(1488)年、富樫政親が遂に賊のために滅ぼされた。その事情は本記(ケンコウ余考)に詳しく記した。(以下略)
高尾
足利尾張守高経が戦に破れて多胡城に馳せ入ったことは『太平記』に見える。
その後、150〜60年を経て、長享2年、富樫政親がこの城を修築して立て篭もったが、同年、ついに賊のために焦土と化した。
野々市
藤原利仁将軍より7代後の富樫二郎家国が初めてこの野市に本拠を構えて、23代後の政親までこの土地に500年余り居館があった。
『平家物語』『義経記』に富樫城・富樫館と出てくるのは、この場所のことをいう。
長享2年、政親が戦死した後、富樫小三郎泰高が住み、その養子の稙泰、その子の泰俊が後を継いでその地に住んだ。(以下略)