『越登賀三州志』 その3 注釈d

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高尾城も焦土となったのだ

富樫家譜および官知論などを参考にして考えてみる。
もともと高尾城を修築するのは賊衆を討ち滅ぼすためだったが、これがかえって賊が群れなして攻撃を仕掛けてきたのだ。
政親も高尾城に篭城していては勝機をつかめないことを考えて密かに妻子を越中に送り、高尾城の山奥の鞍嶽(くらがだけ・現倉ヶ岳)に城を築き、ここを守って能登・越中からの援軍を待ち、人目につかない夜に出入りをしていた。


しかし河合藤左衛門がこのことを知り、兵600を分けて洲崎慶覚を大将とし、鞍嶽の搦め手を急襲した。
城兵は守りきれずに城を出て突撃したが、攻め手の勢いが強く、ついに城内に敵兵が入ってきてしまった。
政親は賊将の水巻新介と馬に乗ったまま組み打ち、城内の池に墜落して死んだ。
そこでは富樫氏の家臣である白崎某・高尾若狭・同郎右衛門・額八郎次郎・槻橋入道・同蔵太・宇佐神八郎右衛門・中川監物・同小次郎などが戦死した。
本郷駿河守・八屋入道覚妙・宮永八郎・勝見與四郎・福益弥二郎・郡(那)縁・吉田・小河・白崎・進藤・黒川などは自殺したという。
この説は、部分的には得るものがあるようにみえる。


人々の多くは高尾・倉嶽の両城を、同じ城の別名のようにしているが、これは間違いで別々の城だ。
政親は通常は野々市に住み、これを富樫氏代々の居館とし、高尾・倉嶽の山に上がるのは事があったときの防戦のためだった。
有沢武貞の『城取練習抄』を見ると、富樫氏は代々館村に居住して、事があれば高尾山城に篭り、この間の距離は1里半(約6km)ばかりあるという。

この種の話は、他の諸国にも多い。


信州の村上氏は代々坂本に居住して、事があるときは葛尾の山城に篭るというのも同じ話だ。
葛尾は守るに適した地であり、横吹の難所の1里(約4km)あまりの坂を上がった所にあるという。
この説に従えば、高尾に築城した理由が明らかとなる。

しかし私がかつて歩き調べたところ、高尾山には「御城山・城谷川」などの地名が残っているものの、かつての城跡と思われるものは残っていない。
鞍嶽には城門などの跡らしいものがまだ残っていた。
また非常に要害堅固の山ではあるが、あまりに狭く、かつ峻険すぎて、城としてはあまりに不便すぎる。
ただ、加賀の4郡(河北・石川・能美・江沼)を眼下に臨み、あたかもそれらが掌の内にあるような思いがする。


山頂付近に大小1つずつの古池があり、1つは深さも知れないほどだ。
地元の者たちの口伝えに、この池の中に政親と水巻新介忠家が馬上で組み合ったまま墜落死したため、天気のよい日には馬の鞍の形が水底に見え隠れするという。
私が登ったときは雲が出ていたので、そのため見ることができなかったのだが、この怪しい話は人をだますためのようで、取るにたりない。
また、かつては倉嶽と書いたのを、このときから人々は自然に鞍嶽の字を当てたともいう。

これらを考えてみれば、このときの高尾城修築の話は鞍嶽のことで、高尾城のことではないように思われる。

鞍嶽は知気寺村領(現石川郡鶴来町知気寺町)であり、高尾は高尾村領(現金沢市高尾町一帯)である。
政親の死後、この高尾山の山間から燐火が現れ、これを俗に「高尾の亡(坊)主火」という。
政親の魂が、怨みの思いを凝り固まらせたものだろうか。
400年の時を経て今なお消えないということは、哀れで悲しいものである。

慶覚寺縁起には、高尾城跡の御廟谷という所が政親の自害の地だとあり、また軍記物語の『七国志』には、このとき攻撃を支えきれずに越中に逃れ、9月9日に自害したとある。

以上の諸説が入り混じり、正しい史書に照らし合わせることもできないので、その真偽を確かめることもできない。
また、最近出版された『信長記拾遺』に、これら政親の高尾落城の話を享禄2(1529)年5月とし、賊の大将に灰原藤太夫・今枝大膳の2名を挙げ、かつ政親の家臣に富田九郎左衛門基重などの名を挙げている。
その他、荒唐無稽の話があまりに多くて、枚挙の暇がないほどだ。
これらは全て本願寺門徒の作り事であり、1つとして参考にすることのできない偽書だ。

『昆目抄』慈雲守(寺)本に、

 「推量するに、今、富樫の城跡という所は多くて、野々市・高尾・倉嶽・久安・小原・吉野などが挙げられている。
 宝永元(1704)年、藩命によって藩内から提出された先祖由来帳にも散見している。
 はるかな歳月が経ったもので、詳しい事柄を追いかけて考えることもできない。
 思うに、富樫氏家系の正しい年譜が無いことによるのだ。たとえあるという者も、それは勝手に作り出したものなのだ。
 私はこの書(『昆目抄』)をまとめるにあたり、数多くの書を調べ、富樫系譜を編纂したことがある。
 いまここに叙用より政親まで23代と定めたのも、そこからきているのだ。」

と記し、上記の人名にいくつかの相違があるのだが、ここでは省略する。

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