『越登賀三州志』 その3 注釈a

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槻橋弥二郎

文明6年の史料(『白山宮荘厳講中記録』文明6年7月26日条?)に見える槻橋豊後(前掲史料では槻橋豊前守)の子孫だろうか。
石川郡の月橋村領(現石川郡鶴来町月橋町)に御倉山という所がある。富樫氏の城の米倉跡と言われて、今も土の中から焼け焦げた米が出るという。
その代官を槻橋弥四郎と言い伝えており、この弥二郎のことなのだろう。


広瀬源左衛門

河北郡上山田村領(現かほく市上山田町)に広瀬伊賀守の古城跡があり、この一族なのかもしれない。


阿曽孫六

前の文に出てきた阿曽孫七郎(孫八郎?)の一族なのだろう。


200人余りが討たれたという

富樫家譜を参考にしてみると、このとき政親は負け戦になることを覚悟し、木越光徳寺・磯部勝願寺に頼んで自分の奥方を越中へ退去させたとあるが、私はこれを疑問に思っている。
木越光徳寺・磯部勝願寺は「讃山坊主」で政親の敵である。はたしてそんな者たちに付託するだろうか。

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