越登賀三州志』現代語訳 その参



『越登賀三州志 ケンコウ余考』 第5巻 賀越能三州の土寇蜂起し、富樫氏が社稷を失う  その3
この日、高尾城下の賊軍はいよいよ雲のように乱れ騒ぎ、7日の夜明けに銅鑼を鳴らし鼓を打ち、一斉に垣を乗り越えて猛進し、矢や飛礫を投げてときの声をあげ、雷が響くように猛攻を加えたが、城兵も武器をそろえて堅く守った。

高尾城の大手門は松山左近を守将とし、搦め手の額谷口は森宗三郎を守将とした。
その他、斎藤八郎、安江弥太郎、小早川半弥、新倉将監、浅井九八等が将兵を指揮して前後を守った。

本郷修理進春親は猛々しい性格で、彼らのように座して守るということが我慢できず、部下の侍を率いて城門を進発し、河合藤左衛門の一隊へ討ちかかり、河合を刺そうとした。
しかし河合は老将のゆえに先陣におらず、本郷春親は河合の部将である伊藤久内のために逆に生け捕りにされた。
そこで本郷春親の息子の松千代丸(享年28歳)が父の後に続いて攻め寄せて伊藤久内を斬殺したものの、彼は木村八郎九郎と組み打ち、木村のために捕らえられてしまった。


朝から戦って昼に休戦したが、城兵の戦死者はかなりの数に上った。
額丹波守、額八郎四郎、林正蔵坊、その弟・林六郎二郎、本郷修理進、同松千代丸、高尾若狭守、槻橋弥二郎、斎藤藤八郎、安江弥太郎、同三郎、宇佐美八郎左衛門、山田弥五郎、広瀬源左衛門、同又七、徳光二郎、松木新五郎、阿曽孫六、霜田伊豆坊、奈良與八郎、松原彦四郎、多田源六、石田帯刀、同二郎三郎、板倉喜内、森勝介、岡豊後守、佐々木志摩助、柏原與市、古沢勘七、同朋衆の知阿弥、越前武士の溝口・一木兄弟などをはじめ、200人余りが討たれたという

これに加えて富樫氏恩顧の家臣57人や、それらについていた若干の城兵らも離散してしまった。
山川三河守は手兵を従え、再び城門を発して山内衆の賊将である三池掃部の陣へ進撃し、三池の陣に隙間があるのを見て、山川三河守は戦場を脱出、祇陀寺へ駆け込み、夜になってから闇に紛れて越前の大野へ落ちていった

小川隼人成定は賊将寺井豊後の堅陣を攻撃し、寺井の息子(14歳)を斬ったあと、小さな岡に登って休憩していたところ、賊軍が矢の雨を降らして小川の首級をあげた。


翌日の8日には賊軍がじわじわと城壁に肉薄してきたので、富樫政親も奮い立ち、彼みずから城兵を督戦し、虎が怒り龍が昇るような激しい戦いを行なって攻め寄せる群賊の鋭鋒を挫いた。
しかし城兵らの多くも傷つき、援軍もない孤軍となっては意気軒昂な賊軍に挑むこともできず、政親も城に戻って自殺した。
政親の首は小姓の千代松丸が介錯し、その直後に彼は賊軍の中に突っ込んだ。
賊衆は城に火を放ち、千代松丸も力尽きて火中に飛び込んで死んでいった。

これによって、宮永八郎三郎、勝見與次郎、福光弥三郎、那田、小河、吉田、白崎、進藤、黒川、與津屋五郎、谷屋入道、徳光西林坊、金子、田上入道、長田三左衛門、宮永左京進、沢井彦八郎、安江和泉守、神戸七郎、御園筑前守、同五郎、槻橋三左衛門、同近江守、同式部丞、同弥六、同三位坊、本郷駿河守、同興春坊、山川又二郎などが、それぞれみずから切腹して富樫家代々の恩顧に報いたのだ。

これは長享2(1488)年6月8日のことであり、富樫叙用から23代の社稷もここに至って滅んでしまい、高尾城も焦土となったのだ
実に悲しいことである。
富樫泰高は、政親の首を灰の中から探し出し、菩提寺である大乗寺に送って葬った

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