長享一揆(高尾城合戦)

高 尾 城 小 景

ここでは、平成2年の報告書を元に高尾城内外の画像を、ほんの一部ですが紹介していきます。
なお、現在の高尾城は石川県教育センターなどの公有地の他は、全て個人の所有地で、季節には筍の一大産地となっていますから、勝手に入って山を荒らしたりゴミを捨てたりすると罰せられます。
また山内は思わぬところに崖が散在し、ほんのちょっとでも油断すると転落します。
山内は貴重な遺跡であるとともに地元の方の生活の場であること、また自然の恐さもあちこちに存在していることををご理解ください。

画像 A

平成2年、金沢市によってのべ4年以上にわたって調査が行われた高尾城跡の調査報告書が刊行されました。
これは発掘による報告書ではなく、あくまでも現地踏査による分布調査の報告書ですが、昭和45年の工事によって高尾城は完全に破壊されたというこれまでの説が完全に覆されることになりました。
実際、画像AのA部分「ジョウヤマ地区」の破壊は、その目的が土取りであったことから徹底的に行われ、その直後に行われた緊急調査においても遺構は全く発見されず、わずかに石塔などの一部や若干の中世遺物が発見されたにとどまりました。
その後、特に昭和58年の調査以降、これまで主郭(本丸部分)と推定されてきた「ジョウヤマ地区」が実は見張り所だったらしいことの可能性を指摘され、この場所以外に、いくつかの防御施設つまり砦の存在が確認されました。
このため、最近では「高尾城塞群」とも呼ばれています。
まず、高尾城は南北1500m、東西1500mの半円形をなし、画像Aの左側が北、右側B方面が南になります。
画像A左端の電信柱と鉄塔の間あたりが北端になり、Bの山が低くなっているあたりが南端となっています。
北端部は満願寺川が峰の奥深くまで削り、特に奥の方はV字形の深い谷で隔てられています。
また南端部は七瀬川が、これも奥深くまで曲がりくねりながら伸びています。
この高尾城の山じたいは最高所の標高が約240mと、それほど高くはないのですが、南北の丘陵と隔てている2本の小河川がともに深いV字形をなして、城の内外を分けています。
Cの地域は「前山地区」で、本城とは渓流となっている城谷川で隔てられています。
住宅地の道路と平行に伸びているAの部分が「ジョウヤマ地区」で、@とAの間の台形状の山が「コジョウ地区」と呼ばれています。
そして@の部分、左右2つの尾根の間の谷が「大手道」と推定されています。



画像 B

画像Bは、「ジョウヤマ地区」の裏側(山側)から「コジョウ地区」の尾根の北半部分を見たところで、「コジョウ地区」の尾根は、このまま画像の左(東側)に連なっています。
右側の丘陵が162.4m、左側(東)に連なる尾根部分の「コジョウ地区」の標高は約180mです
なお、この場所は石川県教育センターの敷地内で、立ち入り・撮影・ネット公開とも許可を得ています。



   

画像 C                                       画像 D

「大手道」は画像Cの墓場の下の谷筋を上ることになります。
この場所は山の中腹とまではいきませんが、それに近い標高のところにあり、墓場の裏を山沿いに抜けると「大手道」に出ます。
画像Dは画像Bの地点から100mほど進んだ「大手道」で、両側に崖が迫り、左右に少しずつ曲がりながら上っていきます。
この道は幅の狭いところでは2mほどになり、現在では谷奥の段差に阻まれて上ることはできません。
画像C・Dとも、左側の山が「コジョウ地区」の尾根の南側部分にあたります。



   

画像 E                                            画像 F

画像Eは、「大手道」を上りきった付近から野々市町方面を望んだもので、中央の高層ビルは金沢工業大学の図書館棟です。
この地点から奥(東)に進むと、画像Fの林道(東から西向きに撮影)に出ます。



画像 G

画像Gは、画像Fのすぐ左側(南)にある「指揮台跡」です。
『官知論』に出てくる搦め手・額谷口方面の最後の防御施設で、内側からの高さ2m、幅10m、長さ40mの巨大な土塁が南側の斜面にそそり立っています。



   

画像 H                                      画像 I

画像Hは、画像Gの左側(東)に続く林道で、この奥の右側(南)にいくつかの平坦面があり、「住居跡」と推定されています。
画像Iは、それら「住居跡」の一角で、これ以外にも平坦面が南側の斜面に階段状に広がっています。
画像Hの林道をさらに奥に進むと、左手に城塞群の中の最高所(本丸部分?)が林道を見下ろすように聳えています。



画像 J

画像Jは、高尾城塞群の最高所、標高240.4mの地点で、画像Aの@とAの間の、ずっと奥ということになります。
画像Bの右側丘陵が162.4m、「コジョウ地区」や「額山」の尾根部分(画像Aの@〜Bの最高所)がともに約180mですから、奥にあるとはいえ、木立がなければ見晴らしはかなりいいはずです。



画像 K

画像Kは、金沢市営額谷運動広場から高尾城の南側を写したもので、このあたりから奥が『官知論』に出てくる最大の激戦地・額谷口合戦場と推定されます。
画像には入っていませんが、この場所の左側(西)に、いしかわ社会保険センター、正面左の建物は金沢市額谷ふれあい体育館、その右側は公園となっています。
この場所のすぐ後ろを七瀬川が西流しており、ここから川沿いに300mほど遡ると、急に谷が狭くなっています。

画像 L

画像Lは、七瀬川の対岸の丘陵から見た高尾城の西南部分です。
中央手前の薄緑色の屋根の建物が、いしかわ社会保険センター、その奥、赤っぽいビルは金沢国際ホテルです。
今は住宅街が広がっている平野部にのぞんでいる高尾城の地勢がわかります。



   

画像 M                                画像 N

画像Mは「御廟谷地区」の五輪塔群で、画像Nはその右側(南)奥の平坦面(「寺屋敷」)と、それに向かう通路跡です。
この一角は谷と呼ばれながらも、実際にはこの場所を挟むように西流する七瀬川の本流と支流に囲まれた段丘上にあります。
ですから竹やぶに囲まれてはいるものの、七瀬川の渓谷の隙間から平野部が覗け、季節によってはかなり見晴らしはいいはずです。
高尾城との間を流れる七瀬川の渓流はかなり深く、断崖と言っていいくらいで、砦としてみた場合、谷筋からの侵攻には強いと思われます。
ただ寺院跡・墓所としての可能性も高く、一概に断定はできません。



画像 O

画像Oは、画像AのC部分、「前山地区」の中腹、林道脇の一角に残る石垣跡です。
こぶしよりも一回り大きいぐらいの丸石を積み上げたもので、後世の石垣というよりも、むしろ石組に近いものです。

参考図書
『金沢の古城跡 金沢市文化財紀要56』金沢市教育委員会 1985年
『高尾城跡分布調査報告書 金沢市文化財紀要83』金沢市教育委員会 1990年

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