文明13(1481)年一揆

越中井波瑞泉寺門徒衆、加賀湯涌谷門徒衆と
越中福光城主・石黒右近光義、育王仙惣海寺衆徒との戦い(越中田屋川原の戦い・
文明13年2月)

文明13(1481)年の早春、砺波郡の一向一揆が同郡福光城主だった石黒光義と天台宗育王仙惣海寺の連合軍を田屋川原に破り、惣海寺は焼亡、石黒光義は切腹して果てました。
これが文明13年一揆のあらましですが、この戦いについての史料は『闘諍記』(「瑞泉寺記録帳」照円寺文書)のみで、それ以外の史料は皆無です。
必然的にこの史料に頼る他なく、またこの事件に関しては越中中世史研究の雄である久保尚文氏の考察が史料解釈も含めて最も優れており、本稿では氏が明らかにされた内容を中心に書いていきます。

まずは唯一の史料である『闘諍記』(「瑞泉寺記録帳」照円寺文書・『富山県史 史料編U』所収「付録U」)についてです。
久保氏によればこの史料は写本が何点か残されてはいるものの、内容に後世の書き込み部分があると考えられ、そのため特に最後の部分で記事の内容に矛盾があるとされています。
それらを取り払った「原闘諍記」にはこれといった矛盾もなく、信頼に足る記録ではないかと考えられており、この史料の現代語訳をメインにしていきます。

文明7年8月21日の夜、富樫介政親の命令で加賀国能美・江沼郡の武士に高田専修寺派の者どもが吉崎に押し寄せ、放火して吉崎の建物を1軒も残らず焼いてしまった。
それ以降、本願寺の門徒が一揆を起こし、合戦も止むことはなくなった。
これにより富樫勢が石川・河北の2郡に居る本願寺派の坊主や門徒百姓などの首を切り、その他、富樫勢に味方しないものは国を追い出されたので、瑞泉寺へ加賀から逃げ来る坊主200余人、百姓町人は男女とも数えられないほど越中へ逃げて来た。
それらのうち、土地の者に縁のある者はその在所に落ち着いたが、坊主衆は大半が当寺(瑞泉寺)に寄り集まったのである。

蓮如の吉崎退去後、特に下間蓮崇を中心に北加賀の湯涌谷衆が主になって文明7年の蜂起があったのは間違いなく、史料によっては「寺社等為兵火火災上」(『鎌倉大日記』)と記されています。
史料の残存性という偶然に左右される部分もありますが、一向一揆が起こったからといって、それこそ毎年毎月毎日のように合戦があったと考えるのは現実的ではありません。
また冨樫氏に従わないからといって門徒百姓の首を切り続けていたら、土地の耕作をして年貢を納める者がいなくなってしまいます。
従って文章のアヤはあるものの、冨樫氏が反旗を翻した湯涌谷門徒衆に弾圧を行ったのは間違いなく、きちんと形の整った寺院で僧侶になっていた者や村落の中で「坊主分」となっていた半僧半俗の人々まで含めた「坊主衆」がかなりの数、越中へ脱出したであろうことは想像に難くありません。

しかし文明13年の春、山に雪の消えた頃、世情は物騒がしく、加賀では前年の冬から合戦が止むということはなかった。
その頃、福光城主の石黒右近光義という者が砺波郡の大半を領して有力武士となっていたのだが、加賀の富樫介政親が申し送りをしてきた。
最近、本願寺派の坊主や百姓が一揆を起こし、言語道断の振る舞いをしたので、石川・河北郡の坊主どもを加賀から追い出したのだが、それが瑞泉寺に寄り集まっているということで、貴殿の軍勢をもって瑞泉寺を焼き滅ぼし、坊主どもの首を刎ねられてはもらえないか、ということを秘密裏に依頼してきたのだ。

折りあらば元の在所に戻ろうとする一揆衆に対し、冨樫氏もそのつど掃討戦を繰り返したのでしょうが、すぐに隣国の越中に逃げてしまうため、冨樫氏と同じ越前斎藤氏の出身で西越中の福光周辺を根拠にしていた在地武士の石黒右近光義に、医王山を挟んだ越中側での掃討を依頼します。

これは加賀越中両国における門徒の比較的自由な移動に対して、冨樫政親は国ごとにしか権力を行使できない一国守護であり、隣国といえども越中に自らの兵を入れる場合は越中守護の畠山政長と協議しなければならなかったからです。
そしてそれは応仁の乱において同じ東軍に属した畠山政長としても、越中守護の立場から政親の越中出兵を認めるわけにもいかず、冨樫氏は古来より同族と伝えられている越中石黒氏の右近光義に頼む他なかったのでした。

これまで越中に本願寺の門徒たちが多いとは言え、まだ守護や地頭に対して弓引く者はいなかったが、石黒右近は政親の頼みに応じ、一族を集めて会議を開いたところ、意見はまちまちでなかなか一致しなかった。
石黒が申すには、最近、一向宗がはびこってややもすれば守護や守護代に対して、彼らを軽んじるような態度がある、そのうえ加賀から瑞泉寺に逃げ集まった坊主どもがもし一揆でも起こして加賀のような騒動になれば、越中にも乱が起こってしまうというものだ。
そこで、まだその企てがないうちに瑞泉寺を焼き滅ぼし、院主(住職)や諸坊主どもを捕まえてしまうべきだと発言した。
ここに会議は一決して、文明13年2月18日に出陣予定とし、秘密裏に合戦の支度を行った。
これらの情報が瑞泉寺にもたらされ、院主の兵部卿・蓮乗も驚いて在地の竹部豊前らに相談したところ、石黒勢が押し寄せて来れば当寺は防ぐ堀も土手もないし、そのうえ武具の類もないとの話に、集まった人々は、蓮乗の教えている坊主や百姓へこの話を触れ回って一戦し、もし味方に利がなければ栃原(一書に下原)へ退却し、五箇山に隠れて時節を待ちましょう、まずは急いで坊主・百姓に伝達しますと言って事情を諸所に触れ回ったのだ。

医王山の三千坊展望台から望む越中側。福光は手前の左側、平野部の真ん中奥に白っぽく見えるのが瑞泉寺のある井波町。画像では見えないが、井波町右手の山々を右(南)に行くと五箇山につながる。

当時、瑞泉寺の院主は名目上は蓮如の2男・蓮乗ですが、彼は前年の文明12年から病気で本泉寺に臥せっており、また兵部卿でもありません。
このときの関係者で兵部卿になるのは、蓮乗の姑で北陸本願寺派の重鎮・勝如尼(本泉寺如乗の妻)の一族の蓮欽でした。
蓮欽は蓮乗の妹で蓮如の11女だった了如尼と結婚し、瑞泉寺を継いだとされています。
要はこのときの瑞泉寺の実質的な責任者が蓮如直系の蓮乗ではなく、むしろ在地の人々が主導して主戦論に決したということです。
このことは、後に出てくる二俣本泉寺と対比してかなり興味深いものがありますが、今は話を進めます。

事情を伝えられて瑞泉寺に味方した坊主や百姓たちは数えられないほどいたが、石黒右近の軍は、不意打ちこそ妙計とばかりに育王仙惣海寺の衆徒に連絡をとったのだ。
惣海寺では衆徒が、最近一向宗がはびこり、わが天台宗の末寺も日に日に一向宗へ改宗していって腹立たしく思っていたときでもあり、衆徒300余人が石黒軍に味方し、2月18日の福光進発に参加することになった。
  
左画像は福光町役場付近から見る医王山。手前の川は小矢部川。 右画像は江戸時代に復興された福光城跡。


石黒右近が味方に引き入れた育王仙惣海寺は天台宗の山岳寺院で、石川県金沢市と富山県福光町の県境にあって南北6km以上の山々を総称した「医王山(いおうぜん)」の山中にあったとされています。
しかし具体的な寺域を含めて詳しいことは一切わかっておらず、寺の名前もこの『闘諍記』にしか出てきません。
ただ天台宗ということで、おそらく白山本宮に繋がる山岳寺院ではないかと考えられていますが、白山本宮にもそれらしい記録はなく、推定の域を出ていません。

先陣は野村五郎・石黒次郎左衛門500余人、2陣は惣海寺衆徒1000余人、本陣の大将である石黒右近500余人、後詰め300余人の、計1600人ばかりの軍勢が押し出していった。
これに対して瑞泉寺へ馳せ集まる者たちは、五箇山勢300余人、近在の百姓2000余人、山田谷または般若野郷の百姓1500、その他射水郡の百姓1000人ばかり、坊主23人の、計5000余人であり、竹槍・熊手・棒・鎌を持って井波から1里(約4km)西の山田川へ押し出し、石黒軍をいまや遅しと待ち構えていた。
石黒軍は、案に相違して不意打ちとはならなかったものの、相手が坊主や百姓のことなので一気に蹴散らさんと先陣500余人と惣海寺衆徒300人が一度に押し寄せ、火花を散らして戦ったのである。

  

史跡案内板のある「田屋川原古戦場跡」(左)と山田川の田屋川原(右)  右画像の奥に見える山々が医王山

1ヶ所、数字の合わないところはありますが、惣海寺の衆徒を1000余人とせずに300余人とすれば数は合います。
五箇山というのは合掌造りで有名ないわゆる越中五箇山のことで、瑞泉寺の東を北流する庄川の上流域になり、越中門徒の多い土地でした。
この山田川は福光と井波のちょうど真ん中を北流しており、井波側の集落の名前をとって「田屋川原」と名づけられ、この合戦も「田屋川原の戦い」と呼ばれています。

二俣本泉寺は富樫介のサイソク(催促?)に応じており、よってそのまま動かなかったのだが、このことを伝え聞いた加賀山の者や湯涌谷の者どもが馳せ集まって2000余人となったのを二手に分け、一手は泰澄大師建立の育王仙惣海寺に押し寄せた。
ちょうど衆徒は井波に赴いていて留守だったので、残っているのは老僧たちばかりであり、百姓どもは1宇も残さず放火して焼払ってしまったため、48坊あった寺院は全て煙となってしまったのだ。
また一手は1000余人が福光城下に押し寄せ、町に火をかけて城へ進んだものの、ほとんどの武士が井波に出陣しており、女子どもばかりが逃れるばかりで寄せ手を防ごうとするものは1人もいなかったのである。

二俣本泉寺が応じたとされる「富樫介のサイソク」とは、政親に事前に釘をさされていたことを指すものでしょう。
前述したように、この頃住持の蓮乗は病の床に伏しており、のちに蓮乗の跡を継ぐ蓮悟はこのとき本泉寺に居たかどうか微妙な時期にあたり、またたとえ本泉寺に居たとしても彼はこのとき数えで14歳でした。
その意味において、動こうとしても動きにくかったとも考えられますが、在地の人々と衆議して早々と主戦に決した瑞泉寺とは対応の仕方がかなり異なるようです。
また、久保氏は湯涌谷の者どもに同心した「加賀山の者」にも注目しています。

医王山の谷々から煙がおびただしく上がり、育王仙惣海寺の寺坊が燃えているようだと石黒軍の斥候の知らせによって300人の衆徒が振り返ると、山々や谷々から煙が立ち昇り、これはどういうことだと思う中に、福光の城下も一面に焼けていったのだ。
石黒勢の前には一揆の坊主百姓5000余人が立ちふさがり、また福光からは加賀勢2、3000が押し寄せて城に火をかけたと知らせてきたため、石黒軍1600余人は我先に逃げ散ってしまった。
石黒右近光義は主従36人がまとまって安居寺に向けて陣を引いたが、井波瑞泉寺勢は逃げる石黒軍を追いかけて700余人の首を取り、馬具や武具などを奪い取って引き上げていった。
それから野尻へも押し寄せたので、坊主には叶わないと武士たちは髪を剃り、僧衣を着けて井波に降伏したので、砺波郡は瑞泉寺領となっていったのである。

  

左画像は医王山の西3km・「医王の里」から約4km南方の湯涌谷を望む。
右画像はその中央部を拡大したもので、真ん中に湯涌温泉の建物群が白く見える。

この医王山ですが、特に加賀側はかなり山深く、それこそ山あり谷ありの複雑な地形ですが、越中側は若干の谷などはあるものの、それも加賀側ほどでなく、平野からすぐに山々が立ち上がっているような印象を受けます。
医王山の山中で比較的平坦でかつ広い所といえば加賀側の大池平(標高540m)ぐらいしかなく、そこから越中に出るには東の金山峠(標高789m)を越えて一気に福光町に降りるという形かなと思われます。
その分、時間もかかるかと思われ、惣海寺がもし越中側にあるとすれば、所要時間はおそらくその半分程度しかかからなかったのではないかと考えられます。

なにぶん、惣海寺の場所が不明なものでもあり、また一ヶ所に寺坊がかたまっていたという証拠もないので、推測の上に推測を重ねる形にならざるを得なくなってしまうのが残念です。
また湯涌から福光へは、湯涌谷の東にある横谷峠(横根峠とも呼ばれる。標高530m)を越えて小矢部川沿いに北上するルートかと思われます。



















金沢市大桑町の台地から見た医王山山系。
犀川による谷の向かい側の丘陵地が小立野台地。
その向こう、画像では見えないが浅野川の谷があり、戸室山、キゴ山の奥に医王山がある。
医王山の右(南)、山並みが一段低く続いているところが横谷峠。



















上画像の拡大。
送電線鉄塔の向こう側、向かって左に戸室山、その1つ奥のスキー場のある山がキゴ山で、医王山はその奥。
医王山の右最高部が奥医王山(939m)、左の鞍部は夕霧峠(850m)で、このちょうど反対側・富山県側にイオックス・アローザスキー場がある。
医王山左の最高部は白兀山(しろはげやま895m)


ここで加賀山の衆が示し合わせて立ち上がったことを尋ねてみると、坊坂四郎左衛門は石黒家から桑山城を預かっていたのだが、事情があって四郎左衛門が追い出されたため、四郎左衛門は桑山を立ち退き、土山安養寺にあったのだ。
そこで石黒右近の企てを密かに聞き、加賀衆と語らってすぐに同心し、育王仙を焼き払い、福光へ押し寄せ、火をかけた。
その時、安養寺の大将と定め、戦いがすんでのち、山田川の西は安養寺領、東は瑞泉寺領とした。
石黒は富樫介の頼みによって反一揆の軍を起こしたのだが、たちまちに焼き滅ぼされてしまった。
そのうえ川上の坊主百姓が安居寺へ押し寄せたので、石黒右近光義の主従16人も腹を切って死んでしまった。
攻め手は彼ら主従の首を取り、獄門にかけたのだ。
これ以後、砺波郡の郷士・国侍・地頭は残らず降参して、井波に参じたため、それから井波を要害の地としたのだ。
安養寺は文明16年、神田に入って再建したのである。

久保氏は、上記『闘諍記』の中で安養寺の記述(青字の部分)が後に差し入れられ、それが書写の段階で本文に記されたと推定されています。
久保説は非常に的確で、本稿において青字の部分も原文どおり現代語訳してあるものの、その部分を無いものとして読んで頂けば良いかと思います。

さて「加賀山の者」に注目された久保氏は、この段の坊坂四郎左衛門と彼が語らった「加賀衆」について、考察を進められています。
当時、石黒右近光義の配下に坊坂四郎左衛門がいたのですが、坊坂は文明13年の段階では右近光義によって居城を追われ、土山(どやま)にありました。
二俣本泉寺前から朴坂峠を越えて越中側に抜けて福光にいたるルートは、現在の県道金沢井波線に沿って曲がりくねりながら続いており、「二俣越え」または峠の名をとって「朴坂越え」と呼ばれています。
ただ朴坂峠じたいは県境よりも2km近く富山県側にあり、西の県境に向けて1kmばかり進んだところに三軒茶屋という場所があります。
この三軒茶屋の北に、坊坂のいた土山がありました。

福光町竹林から医王山山系を望む。左の最高部が奥医王山になる。
右手前の森の右奥、一番低いあたりを国道304号線が通り、金沢市森本町に抜け、森の左斜め奥の鞍部を県道金沢井波線が通り、こちらは金沢市二俣町に抜ける。

今でも県道金沢井波線を通ると、北側に台地状の山が見え、そこが土山御坊のあった跡とされています。
土山御坊には文明11年以前から蓮如の4男・蓮誓が住み、蓮乗〜勝如尼〜蓮欽系の井波瑞泉寺とはまた違った越中門徒の指導・組織化が行われていたようで、文明13年当時、坊坂四郎左衛門のいたという土山は、つまりそういう土地だったのです。

久保氏は二俣本泉寺蓮乗の病床にあることも含めて、その著『勝興寺と越中一向一揆』55頁において

「門徒形成の進んだ加賀にある本泉寺には、本願寺の忠実な代務者として機能しえる立場があり、守護富樫政親に対する反抗は時期尚早とみえたのに対し、土山坊にあった蓮誓はむしろ越中教団護持の立場から、蓮如から破門された下間安芸法眼蓮崇と関わりの深い加賀湯涌谷の「一向宗」徒への接近を図ることをいとわず、軍事行動をすすめたようにみえる。」

とされ、続けて

「それはまだ本願寺による門徒形成が不十分であった越中において教化活動にあたらねばならない蓮誓の立場を示唆しているようにも思われる。」と推論されています。

文明7年の湯涌谷衆蜂起が富樫政親によって鎮圧されたとき、湯涌谷衆が越中に脱出したのに対し、それを扇動しかつ主導した下間安芸蓮崇自身は、自分の出身地である越前に逃れています。
すでに蓮崇は蓮如に破門されており、そのことが加賀の門徒衆にも知れ渡っているはずですから、蓮崇の湯涌谷門徒衆との結びつきも文明13年段階ではかなり薄くなっていたように思われます。
そこで二俣本泉寺の蓮乗が動かないのを見た土山坊の蓮誓は、坊坂四郎左衛門などとも連携し、井波瑞泉寺側すなわち越中門徒勢に加勢すべく、蓮如の4男という自らの貴種性をも援用しつつ、加賀山の衆つまり湯涌谷衆を動かしていったのではないかと考えられるわけです。

いずれにせよ、この合戦において冨樫政親のもくろんだ反守護門徒衆掃討作戦は失敗に終わり、むしろ彼ら門徒衆を勢いづかせる結果となってしまいました。
越中の国内とは言え、在地の武士団と旧仏教の寺院を1つ、まるまる滅亡に追い込んだわけですから、彼ら門徒衆の意気が上がらないわけがなく、それはそのまま加賀での門徒衆の行動に反映されていくことになります。


参考文献

『一向一揆の研究』井上鋭夫著 吉川弘文館 1968年
『小松本覚寺史』浅香年木著 能登印刷出版部 1983年
『勝興寺と越中一向一揆』久保尚文著 桂書房 1983年
『石川県の地名 日本歴史地名大系17巻』平凡社地方資料センター編 平凡社 1991年
『加能史料 戦国T』加能史料編纂委員会編 石川史書刊行会 1998年

『加能史料 戦国U』加能史料編纂委員会編 石川史書刊行会 2000年
『塩硝の道 五箇山から土清水へ 塩硝の道研究会調査報告書』
     上平村・平村・利賀村・城端町・福光町・金沢市塩硝の道研究会編 能登印刷 2002年


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