文明7年一揆

湯涌谷門徒衆と冨樫政親軍との戦い、蓮如の吉崎退去(文明7年3月〜同年8月21日)

白山本宮からみた文明7年の一揆

全国2600以上に上る白山社の総社として、現在の石川郡鶴来町一ノ宮に鎮座する白山比盗_社に残る『白山宮荘厳講中記録』には、文明6(1474)年7月26日条の後半部に、次のように追記がされています。

「翼(翌)年国民等、本願寺威勢ニホコ(誇)リ、寺社ノ領知諸所免田年貢無沙汰、仍神事并勤行等及退伝(転)、先代未聞言語道断之次第也、随而武家ノ威勢モ如無、不思義之時節難斗之(也カ)」カッコ内は筆者加筆

つまり文明6年の翌年・文明7(1475)年になると、加賀の在所衆らが一向一揆の威力を誇り始めて、白山宮や中央の大寺社など荘園領主の領地内において年貢を怠り始め、よって白山宮の神事や折々の勤行なども勤められなくなってしまった。
これは前代未聞、まさに言語道断のことであり、戦に勝った冨樫など武家の力も消えてしまった如くで、まことに信じられないような時代になってしまった、と嘆いています。

白山本宮(白山寺)は平安時代から続く加賀最大の神社で、平安末期から天台系つまり比叡山の末寺となり、越前の平泉寺、美濃の長滝白山神社と並ぶ白山三馬場の1つとして聖俗の両面で勢力を誇っていました。
『白山宮荘厳講中記録』は、白山宮の荘厳勧学講に所属する衆徒が、承元3(1209)年〜弘治2(1556)年までの出来事を断続的に記録したもので中世加賀史における第1級の史料です。
ただ書き手の性格により、法敵である加賀一向一揆についてはあまり詳しく記していないのですが、同時代の加賀一向一揆を在地において批判的に記述しているという稀有の史料でもあります。

この史料の内容は、当時一揆を結んだ加賀の人々の思いや、それに基づく行動を見事に表現しています。
もともと真宗の教義は「弥陀(阿弥陀如来)の本願」のみを信じて「念仏」することであり、それ以外の他行は認めていません。
しかも弥陀の前では万人は平等であり、身分の差はないとされていますから、当時土民と呼ばれていた在地の人々が他宗の寺社に属する荘園の年貢を怠ったり、それまで尊ばれていたはずの在地の宗教権威である白山本宮の、神事や勤行に納めるはずの公事年貢さえも怠るという事態にまで発展してしまったのです。
かつては「馬の鼻も向かぬ」と威勢を恐れられた白山本宮も、この頃はそれほどの軍事力を持たず、ただ一揆衆の傍若無人な振る舞いを見ているしかなかったことがわかり、同時に、一揆と協力関係を結んだ冨樫政親軍さえもこれらを抑えきれなかった様子がリアルに記されています。

このままいけば、武家など支配者側の考える加賀国内の治安はますます悪化するばかりで、冨樫はじめ有力武士たちもどこかでタガを引き締めなければ、と考えたことでしょう。
井上鋭夫氏の研究によれば、文明7年3月下旬に初めて冨樫政親軍に対し一揆衆が蜂起し、武力衝突が起こったとされています。
詳しい経緯はほとんどわかっていないのですが、どうも石川郡の北部と河北郡の一揆衆が在地武士とともに蜂起したようで、彼らは敗北し、東に聳える医王山(いおうぜん)を越えて隣国の越中に逃れ、井波の瑞泉寺に亡命しました。


越中に脱出した湯涌谷門徒衆と井波瑞泉寺

  

画像は金沢市湯涌温泉の入り口付近。川は浅野川で、これを渡って右に進むと湯涌温泉に着く。
左手の電柱沿いの道を行くと金沢の市街地に出る。奥に連なる山々は、加賀越中国境の医王山山系。
このあたりが「湯涌谷」と呼ばれていたと考えられている。

加賀を脱出して井波瑞泉寺に亡命した彼らは、後述するように彼らは自分たちの代表者として洲崎藤右衛門入道・湯涌次郎右衛門入道の2人を吉崎の蓮如の元に送っており、湯涌谷門徒を中心とした人々だったとされています。
洲崎藤右衛門入道はおそらく洲崎慶覚の一族で、石川郡の犀川下流域または河北郡浅野川下流域の武士、いっぽう湯涌次郎右衛門入道は浅野川上流域にある、加越国境近くの小盆地・現在の湯涌温泉あたり、いわゆる湯涌谷にいた在地有力者と考えられています。
当然、加賀の平野部からこの地を攻めるには西流する浅野川沿いに進むしかなく、その道を通って攻めてきた富樫勢から逃れるには、湯涌谷の奥の山間部を抜けて越中に脱出するしか方法はなかったろうと思われます。

そして当時の越中には、井波瑞泉寺(現東砺波郡井波町)、土山坊(現西砺波郡福光町土山、後の勝興寺)などがありました。
この頃の井波瑞泉寺は、加賀二俣本泉寺(現金沢市二俣町)に居た蓮如の2男・蓮乗が不在ながらも住持を兼任し、土山坊も成立時期は不明ながらも同じく蓮乗が兼任していたとされています。
もともと本願寺5代の綽如が開いたとされる越中井波瑞泉寺は、蓮如の叔父である如乗が住持となるまでは、在地の時衆に管理されていました。
その如乗が北陸に下向し、まず永享10(1438)年に井波瑞泉寺を復興させ、嘉吉2(1442)年に二俣本泉寺を創建します。

現在の井波瑞泉寺と門前の商店街。今の瑞泉寺の建物は江戸時代に建てられたもの。

この如乗はよく「本泉寺如乗」とは呼ばれますが、あまり「瑞泉寺如乗」とは呼ばれません。
これは如乗が瑞泉寺の真宗復興には成功したものの、在地においての民衆の教化が、民衆の側からすれば真宗への信仰=仏法だけにとどまらず、年貢の納付や領主への対応など「王法」への挑戦に転化してしまったことから、蓮如が吉崎を離れていったと同様に如乗も瑞泉寺を離れていったのではないかと『勝興寺と越中一向一揆』で久保尚文氏は指摘しています。

それでも一応名目上は、如乗は本泉寺と瑞泉寺の2ヶ寺の住持となり、これは如乗の妻である勝如尼に乞われて彼ら夫妻のひとり娘の婿になった蓮如の2男・蓮乗も同様に2ヶ寺の住持を兼ねることとなりました。
この蓮乗が土山坊の住持も含めて、二俣・井波・土山と3ヶ寺の住持を兼帯したのが文明5(1473)年頃と言われており、その頃には土山坊があったということになります。

文明5(1473)年までの加賀越中国境沿いの真宗寺院の様子は以上のようなものでした。
王法つまり世俗的権威を加賀の在地で代表する富樫勢に戦いを挑んで敗れた湯涌谷衆が逃げ込むには、仏法と王法のバランスを第一に考える蓮乗の二俣本泉寺や土山坊ではなく、彼らと同じ立場の井波在地衆の拠る井波瑞泉寺が最も適していたと思われます。


再度の蜂起と蓮如の吉崎退去

越中に逃げた一揆衆は、吉崎の蓮如のもとへ洲崎藤右衛門入道・湯涌次郎右衛門入道の2人を使者に送り、蜂起した一揆衆の政親への蓮如のとりなしを要請します。
この頃はまだ冨樫政親も正式な加賀守護とは認められていないのですけれど、加賀守護の家柄、また当時の加賀における最高実力者としての政親については一揆衆も認識していたということでしょう。

そしてここで1人、この時期の重要人物が登場してきます。
男の名は下間安芸法眼蓮崇、本願寺家宰の下間姓を名乗ってはいますが実は越前の出身で、才能を蓮如に見込まれて下間姓を与えられ、この時期の蓮如の右腕とされた人物でした。
彼は蓮如の信頼が厚く、吉崎における蓮如の秘書長とも言うべき存在で、もともと主戦派の吉崎他屋衆にも頼みにされ、文明5(1473)年の秋、吉崎の緊張から逃れようと藤島超勝寺に滞在していた蓮如を、吉崎に連れ戻したのも下間蓮崇だったのだろうと考えられています。

彼は蓮如の吉崎退去後に湯涌谷に籠ることから、当時湯涌谷の一揆衆とは特別な関係があったとされています。
越中に逼塞する洲崎藤右衛門入道らが蓮如の協力を願いに吉崎に訪ねた際、彼らと蓮如を取り次いだのも下間蓮崇でしたが、蓮如の洲崎らに対する態度は、初め冷淡に近いあいまいさでした。

以下、『実悟記拾遺』の描写から見てみます。

「和与ヲ調ヘ、無事ニ還住スベク拵候間、其趣吉崎殿ヘ両使洲崎藤右衛門入道湯涌次郎右衛門入道トサフラヒテ、安芸ヲ以申入ル処ニ、両使申入候段ヲバ一向不申入。」

政親との和議を調え、無事に在所に戻ろうと準備して、その旨を吉崎の蓮如へ洲崎らを遣わし、下間安芸蓮崇を通して申し入れたのですが、蓮崇は両人の話すことを全く蓮如に取り次ごうとはしなかったのでした。

「各別ニ安芸奏者被申入、涯分致調法、加州ヘ可切入候アヒダ、被付力候ヤウニ、御意ヲ以可被仰付候。
涯分合戦致スベキノ由、申入ラレ候ト、蓮如上人ハ申上事候ト披露セラル。」

そこで両名は別々に安芸法眼蓮崇に、精一杯取り組んで加賀へ再び攻め込みますので、力をお貸しいただきたい、御意を以って各地に命令を出して下さいと申し入れます。
この、身を粉にして合戦いたしますとの請いを、蓮崇は蓮如上人に披露したのでした。

「蓮如誠ト思召、無用ト思召サレ候ヘドモ、サヤウニ談合調法ニ於テハ是非ナク候。更ニ御異見ニ及バズ候。イカヤウトモ、然ルベキヤウニ。調申サルベシ」

ここで蓮如は、この話を真実と思い、また無益無用のこととも考えられたのだが、そのように話し合って決めたのであれば、仕方がない。自分の意見を申すまでもなく、どのようにでもするがよいと伝えさせています。

この答えを受け取った洲崎らは、

「申入段ノ御返事、イサゝカ心元ナク存ジ候ヘドモ、御意ノ旨ト申出サレ候アヒダ、是非ナク候ヒキ。」

申し入れた話のご返事にしては、いささか心もとないけれども、蓮如様の御意と言われたので、これも仕方がないかと思ったのですが、

「富樫ヲ成敗セシムベキノ由、御意ヲ直ニ承度心出来。
ナニサマニ直ニ御目ニカゝリ度候由、両使申候ヘバ、無用トサゝヘラレ候アヒダ、猶心元ナク何トゾ御目ニカゝルベキ由ニ申候処ニ、蓮如上人モ直ニ仰ラルベキノ御心ニテ、御見参アルベキト仰ラレ候ヘバ、安芸タゞ直ニ御意マデモナク候。
安芸委細可申トバカリ仰ラレ、然ルヘキ由申上ラレ候。
上人ハ安芸申サレ候コトハ、何ゴトモ仰ツルアヒダ、御目ニカゝリ候ヘバ、此度骨折也。
委細安芸申ベシトバカリ仰出サレテ、両使是非ナク、御意ト心得テ帰宅シ侍リ。」

富樫政親を成敗することにつき、蓮如の承諾を直に承りたいという心が生じました。
そこで何とか直にお目にかかりたいと両名が申したので、それは必要ないと下間蓮崇に言われてしまい、それでもなお、何卒お目にかからせて下さいと申し上げてみたところ、蓮如の方でも少々不安に思って直接に話をされようと思っており、蓮崇に命じて両名を呼ぼうとしたところ、蓮崇は蓮如上人が直接申すほどのことではなく、この安芸法眼蓮崇が、こと細かに申し伝えましょう、それでよろしいですねと上人に申し上げました。
蓮如は、信頼する蓮崇が申すことは何事も信用されていたので、対面すれば骨折りにもなろう、細かいことは蓮崇が申してくれと仰せになり、両名は仕方なく、先の返事がそのまま蓮如の返事であると心得て帰ったのです。

ここに蓮如と他の人々との思いの違いが表面化してきます。

「蓮如上人ハ無事ニ調ヘ、両使モ下リ侍ラント思召ケリ。
越中ニカヘリ、各内談申シ、各同心ニ難成事トハ心得候ヘドモ、ソノ中ニモ、コレゾ面白キコトゝ存候衆モ侍ルナリ。」

蓮如の方は、信頼する蓮崇に任せたので自分の思いのように平穏に過ごしてくれるだろうと考え、洲崎と湯涌の両入道の方は、越中に帰って内々に話し合った結果、直に聞いたわけではないので心もとなくてなかなか信じられないけれども、そう言ううちにも、これは面白くなってきたと考える人々も出てきたのです。

蓮如自身は、この一種突き放したような物言いをして、言外に和議を結ぶようにさせたつもりなのでしたけれど、実際の話は蓮如の思惑とは逆の方向に流れていきます。
吉崎山下の他屋内では、おそらく意気上がる他屋衆がひしめいていたことでしょうし、大言壮語がそのまま自分たちの実力であるという錯覚に陥ったとしても無理はなかったと思われます。
他屋衆にとっては彼らの先鋒としての3月蜂起だったわけで、実際に敗北して本拠からの脱出・亡命を余儀なくされた人々と、そのような体験をしていない吉崎他屋衆や、そういう雰囲気の吉崎にあって湯涌谷衆をあやつった下間安芸蓮崇とでは講和派と主戦派ほどの違いがあったと考えられるのです。

そして同年6月、湯涌谷衆を中心とした一揆は再び蜂起し、これも政親軍によって鎮圧されてしまいます。
史書にはあまりこの間の合戦について残っておらず、それゆえにこの蜂起は大規模なものではなく、おそらく小競り合い程度だった可能性があるのですが、それでもさすがに蜂起が2度に及んでは、蓮如も安穏とはしておれず、それは父の苦悩を目の当たりにした彼の息子たちも危機感を抱きました。
蓮如の3男・蓮綱と4男・蓮誓は、当時大津にいた長兄にして次期住持職と目されていた順如を呼び、事の次第を告げて順如から父・蓮如に話をしてもらいます。
3男・蓮綱は、のちに能美郡波佐谷松岡寺に、また4男・蓮誓は越中土山坊から江沼郡山田光教寺に入り、次男・蓮乗のいた河北郡二俣本泉寺とともに賀州三ヶ寺を形成する傑物たちです。

ともあれ、長男・順如の諌言によって蓮如はついに吉崎退去を決意します。
文明7(1475)年8月21日早朝、蓮如は順如を乗せてきた船に乗り込んだところ、

「安芸モ御船ニ乗ラレ候ヲ、願成就殿コトナルハ何者ソト仰ラレ、引立サセタマヒ、船ニカゞミ居ラレ候ヲ、取テ陸ヘナケ出サレ候ヘハ、磯キハニ伏シツゝ御船影ノ見ユルマデ、ヒレフシ泣キ居ラレ候ヒツルガ、御船モ見エスナリ候ヘバ、オキアカリ、御坊ニカヘリ、其マゝ越前加州ノ門徒中ニ勧化」(『顕誓病中日記』)

下間安芸蓮崇もまた船に乗り込んだところ、順如(願成就院殿)が、これなるは何者ぞと声をあげられ、船中に屈みこんでいる蓮崇を引き立て、陸へ投げ出されたのです。
蓮崇は小石交じりの岸辺に伏しつつ、蓮如を乗せた船影が見えなくなるまでひれ伏して泣いていたのですが、本当に船が見えなくなると起き上がり、御坊の建物に戻って越前や加賀の門徒衆に仏法を説いたのでした。

この部分はたいへん有名なくだりで、これをもって下間安芸法眼蓮崇は破門され、それが許されるのは蓮如の臨終直前でした。
この後、蓮如は船で若狭まで行き、そして畿内に帰り、以後北陸には2度と足を踏み入れませんでした。
そして吉崎は、越前和田本覚寺が蓮如の名代として留守職を預かり、かつての殷賑は徐々に姿を消していきました。
蓮如という傑出した中心を失った一揆衆は、少しの間、閉塞を余儀なくされますけれど、1度自分たちの結集する力を知った在地の人々は、文明7年の敗北にもしっかりと生き延び、次のステップへと進んでいくことになります。
蓮如の播いた種は、確実に芽吹いていったのです。


参考図書
『一向一揆の研究』井上鋭夫 著 吉川弘文館 1968年
『人物叢書 蓮如』笠原一男 著 吉川弘文館 1963年
『日本思想体系 蓮如 一向一揆』笠原一男・井上鋭夫 校注 岩波書店 1972年
『白山史料集 上』金沢大学法文学部内日本海文化研究室 編 石川県図書館協会 1979年
『小松本覚寺史』浅香年木 著 能登印刷出版部 1983年
『勝興寺と越中一向一揆』久保尚文著 桂書房 1983年
『石川県の地名 日本歴史地名大系17巻』平凡社地方資料センター編 平凡社 1991年
『加能史料 戦国T』加能史料編纂委員会編 石川史書刊行会 1998年
『加能史料 戦国U』加能史料編纂委員会編 石川史書刊行会 2000年


文明6年一揆へ
     トップに戻る     文明13年一揆へ

inserted by FC2 system