文明6(1474)年一揆

冨樫幸千代・高田派門徒との戦い(文明6年7月〜同年10月)

応仁の乱当初、北陸においては西軍の雄・能登畠山氏、越前の甲斐・朝倉両氏も西軍であり、東軍派の泰家・政親方は孤立していました。
北加賀の在地武士たちは政親の弟である幸千代を擁立、加賀における西軍派の地固めを行っていたところ、しかし文明3(1471)年5月、朝倉孝景は幕府の管領職を望む能登守護・畠山義統とともに東軍に帰参、北陸の形勢は逆転しました。

ここに冨樫政親は加賀山内に籠り、機会を窺っていました。

文明4(1472)年8月6日、越前の甲斐八郎は朝倉方と越前府中で戦い、敗れ去りました。
甲斐党は近江、京都、加賀に退き、とくに加賀に入った甲斐党は北加賀の西軍派と合流、文明5(1473)年7月9日、山内の政親を攻撃したのです。
政親は朝倉氏に救援を依頼しましたが間に合わず、彼は白山山系の山越えをして越前朝倉氏の元に亡命しました。
勝ち戦に乗る甲斐八郎らは、翌9月に越前侵攻を果たしています。
政親は越前亡命直後、吉崎に赴いたらしく、そのとき蓮如も彼と対面し、政親の方から協力要請がなされたものと考えられています。
また、おそらく越前朝倉氏からも何らかの形で要請があったものと考えられており、この時期の蓮如は苦しい選択を迫られていたと言えます。

しかし蓮如は、同年正月の時点で僧俗の群衆があふれていた吉崎の諸人出入をとどめていました。
当時、白山の越前馬場・平泉寺などの吉崎圧迫の予測や、また越前加賀における戦乱の吉崎波及を嫌ったものと解されています。
そして9月下旬、蓮如は喧騒の吉崎を離れて加賀山中に湯治に出かけ、その後、藤島超勝寺に滞在、超勝寺の住持・巧遵を隠居させて、当時超勝寺を中心に行われていた「ものとり信心」、「諸宗誹謗」を諌めています。

しかし蓮如留守中の吉崎では、他屋衆が「要害」や「造作」を行い、戦いの準備を進めていたのです。
加賀からは高田派門徒と結んだ冨樫幸千代方が本願寺門徒を圧迫し、ついには吉崎侵攻を企てようとしているとの情報も入り、また越前平泉寺は越前加賀の守護に働きかけて一向宗禁制の挙に出るという噂も伝えられていたからでした。
蓮如は彼ら他屋衆による、吉崎帰住の懇望に抗しきれず、この10月には吉崎に戻ってこざるを得ませんでした。

仕方なく吉崎に戻ってきた蓮如は、翌11月に「十一ヶ条制法」を出して他宗誹謗の停止、守護地頭の尊重などを訴えました。
しかし蓮如自身が文明6年正月20日付けの御文で述べているように、その試みは失敗に終っています。
「去年霜月の頃よりこの方、当国加州能登越中の間より、男女老少幾千万となく当山へ群集せしむる条、しかるべからざるの由の成敗をなすと言えども、さらにもて多屋坊主以下その承引なし。(以下略)」『日本思想体系 蓮如 一向一揆』抜粋
蓮如は、地元の他屋衆に押し切られたのです。

文明6年6月、名将の誉れ高い美濃の守護代・斎藤妙椿が越前に下り、朝倉孝景と甲斐八郎を和解させると、加賀の形勢は急展開をし始めます。
甲斐氏は冨樫幸千代方の有力な味方であり、彼を失った幸千代方の弱体化は避けられませんでした。
越前に寄食していた政親は、国侍や蓮如の下知を受けた本願寺門徒衆を率いて翌7月、加賀に攻め込みます。
これが第1次文明一揆です。

蓮如がそれまでの立場を反転させ、門徒衆に下知して冨樫政親に協力させたのは、止むにやまれぬ動機があったとされています。

「それ加賀国の守護方、早速にかくの如く没落せしむる事、更に以って人間の所為に非ず、これ併しながら仏法王法の作らしむるところ也。
ここに高田門徒に於いて、年を積み日を重ねて、法敵を作るといえども、かつは以って承引せず候ところに、在所に於いてあるいは殺害、あるいは放火等の種々西(悪)行を致して、以って数多の一類、守護方(幸千代方)とあい語らい、すでに彼らと同心せしめおわりぬ。
然りといえども、今度加州一国の土一揆となる。
同行中に於いて、各々こころ行うべき趣は、すでに百姓分の身として、守護地頭を対治(退治)せしむる事、本意にあらざる前代未聞の次第也。
しかれども仏法に敵をなし、また土民百姓の身なれば、限りある年貢所当等を均等に沙汰せしむるひまには、後生のために念仏修行をせしめ、一端憐憫こそなくとも、あげく罪咎にしつめ、剰さえ誅罰に行うべきその結構あるの間、無力かくの如きの謀叛を、山内方(政親方)と同心の企てをせしむるところ也。
これ誠に道理至極なり。
しかる間、上意として、忝くもかくの如きの旨を聞こし召さるによりて、すでに百姓中へ御奉書なされるの間、身に於いて今は私ならぬ次第也。
然りといえども予が心中に思うようは、かくの如きの子細、望まざるところ也。(以下略)」『柳本御文集』より抜粋。うちカッコ内は筆者加筆。


ここでは第1に、高田門徒が加賀の在所において冨樫幸千代方と語らい、本願寺門徒を殺害また放火等の乱暴を働いていたこと、また彼らが本願寺の勧める念仏を罪科に問い、罰していたことが挙げられ、第2に政親を支援する将軍家の奉書が出されたことが、蓮如に一揆を下知させた理由として述べられています。
特に政親支援は将軍家からの公的なものであって「今は私ならぬ次第」という性質のものであり、本来の蓮如の思いは「望まざるところ」でした。

しかし蓮如の思いとは裏腹に、多数の本願寺門徒を擁する政親軍は幸千代方を圧倒し、同年11月には加賀は政親方に制圧されたと考えられています。

「同年七月廿六日 念仏衆高田・本願寺国民、これを諍う。この砌に於いて、富樫次郎殿・幸千代殿御兄弟、時の守護代・額熊夜叉殿、与力沢井・阿曽・狩野伊賀入道、この面々は幸千代殿方、高田の土民、同心なり。
次郎殿御方は、山川三州・本折入道・祖福殿以下国人。槻橋豊前守、山内より十月十六日夜、当山本院へ出張、よって長吏御房澄栄法印并衆徒等、御味方に参る。
蓮台寺城十月十四日落ちおわんぬ。打たるる人数を知らず。同二十四日、小原山龍蔵寺の白山拝殿、狩野伊賀入道、小杉、腹切りおわんぬ。しかしてこの前後、数ヶ度の合戦これ有り。委細はこれを注するに及ばず。(以下略)」『白山宮荘厳講中記録』文明6年7月26日条、抜粋

この事件につき、興福寺尋尊は『大乗院寺社雑事記』において、次のように記しています。

「十一月朔日、加賀一向宗土民 無碍光宗と号す と侍分確執す。侍分悉く以って土民方より国中を払われる。守護代、侍分合力の間、守護代 こすぎ 打たれおわんぬ。一向宗方、二千人ばかり打たれおわんぬ。国中焼失しおわんぬ。東方(東軍)鶴童(冨樫政親)は国中へ打ち入るといえども、持ち得ずと云々。土民蜂起希(稀)有のこと也。」カッコ内は筆者加筆。

浅香年木氏はこの史料において、冨樫政親の加賀支配権は「持つことができない」とし、尋尊の判断どおり「合戦の勝利者は、本願寺門徒であり、政親ではなかった。」(浅香年木『小松本覚寺史』)としています。
しかしこの見方は、少々先走りしすぎているのではないかと思われます。
この直前まで、加州牢人と記されている冨樫政親と異なり、冨樫幸千代は守護であって、いわゆる「侍分」です。
その「侍分」とは、『白山宮荘厳講中記録』にある冨樫幸千代、額熊夜叉、与力の沢井、阿曽、狩野伊賀入道らの軍であり、政親方の山川三州や本折入道らではありません。
この後、幕府は政親を加賀守護と認めていることから、軍勢の大多数は一向宗徒であったにせよ、加賀の支配者であると幕府から認められたのは冨樫政親に他ならないのです。
確かに一揆衆の合力によって加賀守護になったということはありますが、少なくとも政親方は加賀の支配権を手に入れたと考えていたはずです。

尋尊の感じ方は「土民蜂起希(稀)有のこと也。」という最後の言葉に象徴されていると思われます。
大荘園領主であり、貴族出身で大和一国の守護であった興福寺のトップだった尋尊にとって、「加賀一向宗土民」が「侍分」である幸千代方を滅ぼしたということの方が、より重要であり、驚愕だったはずです。
しかもこの戦いに関する尋尊の情報源は、本願寺門徒方に近いか、本願寺門徒そのものではなかったかと私は思っています。
少なくとも、「東方(東軍)鶴童(冨樫政親)は国中へ打ち入るといえども、持ち得ずと云々。」という話は、勢いに乗った本願寺門徒の感覚そのものです。
このあたり、注意が必要ではないかと思っています。

同時に、本願寺門徒の中でも思惑の違いがあったようです。
ちょっと長くなりますが、江沼郡額田庄における話です。
まず八木入道子息の那谷寺本泉坊全尊が額田庄得丸名を知行し、その全尊の弟子である那谷寺本泉坊団応が額田庄得丸名を相続しました。
在地の渡部方と舎弟の八木方は、文明5年、額田庄代官や百姓中に、かの名を望み、断られた経緯がありました。
そこで渡部方は、本泉坊全尊の追善に少々合力を加えるなど、庄官衆を通じていろいろ団応に働きかけ、それを団応が断ったところ、渡部兄弟は5貫文の扶持を渡せば、という一行を示してきたので、彼ら兄弟に渡して話はいったん落着しました。
門徒の思惑の違いはここから始まります。

「また次の年文明六年十一月当国一乱のとき、かの名の事、額田御百姓中へ、渡部子息法躰の時、押し取るべきの由、庄家の御返事を申されるといえども、すでに去年一途に落居のところ、この子細取り立て、当本泉房へ申される事、叶うべからずの由申されるところ、渡部四郎方、その時申される旨は、今度、土合城籠り申す事、この名ののぞみによるの由、度々申されるところ、当国の一乱は、仏法の敵に当り責め失い、廉直の弓箭たるところ、無理に知行せしめ押領あるべき事、勿躰なき子細の由、惣庄御返事の間、その時かの四郎方、重ねて申す事、是非に及ばず、閉口しおわんぬ。(以下略)」『加能古文書』996「中院文書」抜粋

ややこしい文章ですが、文明6年11月の戦いにおいて、得丸名のことで渡部の子息・渡部四郎が本願寺門徒となり、額田の百姓中とともに押し取ろうとしたところ、本泉坊団応は、去年の時点で落着しているとして、渡部四郎の話をつっぱねました。
渡部四郎がそのときに本泉坊団応に話した内容は、その戦いにおいて、渡部の子息・四郎が土合城に籠って戦ったのは、得丸名を望んだためで、そのことを何度も惣庄の百姓中に伝えたのですが、惣庄の返事は、今回の戦いは仏敵との戦いであって、正しい戦いであり、それを無理に押領するのは加護を与えた仏に対しても勿体ないことであると言われ、渡部四郎はそれ以上の百姓衆からの協力をあきらめた、ということです。

文明6年11月以降の、在地においての百姓衆と土豪との思惑の違いを端的に示すものとして、この話は井上鋭夫氏によって紹介(井上鋭夫『一向一揆の研究』)されています。
正直に話す渡部四郎ですが、ここでの彼は土豪の1人として振る舞い、まだ荘園の違乱には百姓衆の協力が必要だったことがわかります。
おそらく渡部氏は、冨樫家に近い山川氏や本折氏のような国人層ではない、在地の長衆だったのでしょう。
彼ら在地の長衆は吉崎の他屋衆を形成していたと考えられ、戦いに乗じて本拠近くの庄園などの違乱を通じ、勢力を伸ばそうとしたのに違いありません。
しかしこの時点では、加賀の在地長衆は、まだまだ村落内の完全なリーダーたり得なかったということでしょうか。

ともあれ、この戦いに勝利した冨樫政親は山内を出て、父祖伝来の冨樫庄近くの、当時北加賀における流通の十字路であった石川郡野野々市に本拠を移し、守護所を構えて加賀一国支配に乗り出すことになります。

この戦いは応仁の乱に端を発し、これに乗じた在地武士たちが冨樫家の内紛を引き起こして加賀版応仁文明の乱を発生させたものであり、その意味では加賀における政争に他なりません。
しかし政親軍の多数を占めた本願寺門徒からすれば、いわゆる護法のための聖戦すなわち宗教戦争でしたし、自分たちの武力を知った初めての戦いでした。
また、渡部氏に見られるような在地長衆においては、自己の勢力伸張の機会でもあったのです。
この3つの性格のどれを重視するかによって、この一揆の性格は異なってきます。
私個人としては、3つの性格のどれかを選ぶのではなくて、いろいろと異なる側面を持った戦いであったこと自体を重視すべきだと思っています。
上記、三者三様の思惑の違いは、この後、思惑の違いから加賀の在地情勢の矛盾となって現れてきます。
この矛盾が、次の第2次文明一揆に繋がっていくと考えるべきではないか、と思います。


参考図書
『一向一揆の研究』井上鋭夫 著 吉川弘文館 1968年
『人物叢書 蓮如』笠原一男 著 吉川弘文館 1963年
『小松本覚寺史』浅香年木 著 能登印刷出版部 1983年
『日本思想体系 蓮如 一向一揆』笠原一男・井上鋭夫 校注 岩波書店 1972年
『増訂 加能古文書』日置 謙 編 松本三都正 増訂 名著出版 1968年
『白山史料集 上』金沢大学法文学部内日本海文化研究室 編 石川県図書館協会 1979年
なお掲載史料は、すべて読下し文に直してあり、源史料とは若干の違いがあります。

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