蓮如以前の本願寺


鎌倉時代の中頃、弘長2(1262)年11月、浄土真宗の祖・親鸞は90歳で亡くなりました。
その遺骸は京都東山の鳥辺野あたりに葬られ、遺骨は鳥辺野の北にある大谷に納められました。
親鸞の臨終に立会い、また葬送などの葬儀諸般を取り仕切ったのは、親鸞の末娘である覚信尼だったと考えられています。
彼女は初め京都の下級公家である日野広綱に嫁ぎ、一子覚恵をもうけますが、覚恵7歳のときに日野広綱が亡くなると覚恵は青蓮院に預けられました。
彼女はその後、小野宮禅念に再嫁し、親鸞没後10年に自分たちの家の近くに遺骨を移して改葬し、小さな草堂を建てました。
これが本願寺の前身・大谷廟堂で、規模としては小さなお寺程度の大きさでしかありませんでした。


この時期は関東をはじめとした各地の親鸞門弟の発言力の方が強く、廟堂は門弟の共有、その敷地は覚信尼の所有地だったため、子孫のことを考えた覚信尼は敷地を門弟中に譲ります。
しかし門弟たちの多くは各地に散在していますから、当然廟堂の管理人を選ぶ必要があり、この権利を自分の子供に譲りました。
これが「留守職」と呼ばれるもので、親鸞の墓守と同時に、諸国からの参詣人の喜捨を受け取ることができました。
ただ喜捨といっても門弟自体の数が少なく、まして各地の門弟がそれぞれ一派を構成して独立しだすと、廟堂留守職とはいえ、その窮乏はかなりのものだったようです。

その後、廟堂留守職をめぐって覚恵の子・覚如は父の異父弟唯善との争いになんとか勝ち、大谷廟堂を本願寺と改めました。
大谷廟堂の地は、もともと山門の青蓮院を兼帯した妙香院門跡の別院・法楽寺の敷地内にあり、この争いについては青蓮院の裁決で覚如の権利が認められたわけです。
この青蓮院は山門の有力門跡として、こののちもたびたび本願寺と関係を持ってきます。
覚如がホッとしたのもつかの間、建武の争乱に遭遇した本願寺は建武3(1336)年の京都兵乱に炎上、他の寺の堂舎を36貫文という価格で買い取った本願寺門弟によって、本願寺は再建されました。
しかし覚如が大谷廟堂を本願寺としたことで、各地の有力門弟たちは反発しました。
特に有力だった東国の門弟たちは、廟堂は御墓所であって寺院ではないという立場を崩さず、このため上洛参拝する門徒の数もただでさえ少なかったのにそれがまた激減し、本願寺=覚如は窮乏生活を余儀なくされたのです。


隆盛する真宗他派に対抗して本願寺を成立させ、小なりといえども教団を形成した覚如は、しかし彼の本願寺中心主義にこだわらない長男・存覚の布教によって彼を義絶することになりました。
義絶された存覚は父・覚如に対抗していた関東門徒とも良好な関係を保ち続け、またそれ以外の北陸や西国に門徒を広げることに成功しました。
ただ彼の門徒は真宗他派の門徒であって本願寺門徒ではありませんでしたけれど、蓮如の代になって彼らは本願寺門徒になっており、その意味では存覚の功績は大きいものがあります。

この頃、覚如と出会った男で、後世の加賀一向一揆に対し、大変な影響を与えた人物がいました。
男の名は「和田ノ信性」。関東の真宗他派門徒であった彼は、応長元(1331)年5月、越前に教えを伝えに来ていた覚如の布教に接し、本願寺門徒となったのです。
「和田ノ信性」については不明なことが多く、出身も三河国説、越前国説が拮抗していて定かではありません。
『小松本覚寺史』を執筆した浅香年木氏は、その後の経過を考えると、越前国足羽郡和田庄に関係のある土豪と考えた方が妥当であるとし、また当時の越前国の在地領主であった波多野氏の一族という説にも賛意を表しています。

覚如の後は次子従覚の子・善如が継ぎ、その後は綽如(しゃくにょ)が継ぎました。


この頃になると、小なりとはいえ山門の膝元にあった本願寺に対して延暦寺も圧迫を加え始め、これを危ぶんだ綽如は自ら都を出て北陸を巡り、越中国井波瑞泉寺を建立したりしました。

このように本願寺の歴代住持は、さまざまな苦労の末に少しずつ門徒を増やし始め、その少なさの故に門徒の掌握に努めていたのです。

綽如の頃に加賀では荻生願成寺、河崎専称寺、黒崎称名寺、宮腰迎西寺などの寺々があった程度で、越前に広がっていった他の高田門徒、大町門徒などと好対照をなしていました。
ここで登場してくるのが、前述した「和田ノ信性」によって開かれた和田道場の門徒群です。
初めの頃、和田道場は越前で隆盛を誇っていた高田派門徒に埋もれていましたけれど、綽如の子・巧如(ぎょうにょ)の時代、和田道場が2つに分かれ、片方は和田本覚寺となり、もう片方は巧如の弟・頓円を迎えて越前国藤島に超勝寺を名乗ったのです。

本願寺では本願寺住持(のちに法主となる)の近親者系の寺を一家衆(いっけしゅう)と呼び、他の一般寺院と区別していました。
親鸞の血筋ということから、当然一般寺院よりも格は高く、本願寺は越前に一家衆・超勝寺と在地の有力寺院である本覚寺の2つの柱を持つことになりました。
特に本覚寺はその位置する越前平野から河沿い山沿いの道をたどり、越前のみならず加賀の山間部にも門徒を広げていったのです。
また越前藤島に本拠を置いた超勝寺も、加賀に教線を伸ばし、前述した黒崎称名寺など多くの寺々を自分の末寺としていきました。

本願寺の有力な門徒群として知られる近江堅田衆の中核・堅田本福寺ができたのは、この巧如の時代でした。
もともと祖父の代に本願寺門徒になっていたのが、父の代に禅宗に帰依し、それが法住の代に再び本願寺門徒に戻り、本福寺を開いてのち、蓮如の再教化を受けて以後、忠実な本願寺門徒として琵琶湖を中心に、近江一帯に本願寺教団を広げていったのです。


巧如は永享8(1436)年、息子の存如に本願寺住持を譲って隠居しました。
彼は四男・如乗を伴って越中瑞泉寺に避暑に出向き、そのまま如乗を瑞泉寺の住持としました。
如乗は嘉吉2(1442)年、加賀二俣に本泉寺を建立し、以後、北国教団の重鎮になっていきます。
そして蓮如が生まれたのは、この巧如の時代でした。

巧如の後を継いだ存如が、蓮如の父親です。
存如は巧如に住持職を譲られた2年後、新しく堂舎を建立し、本尊を安置する阿弥陀堂と親鸞御影を安置する御影堂の2堂分離を行いました。
もともと宗祖・親鸞の廟堂として出発した本願寺でしたが、善如の時に本尊阿弥陀如来像を安置し、存如の代になって初めて2堂並立という形になったのです。
しかし阿弥陀堂3間四面、御影堂5間四面の新築は、ただでさえ貧しかった本願寺の経済をかなり圧迫したようで、この前後、蓮如は教学研鑚に灯火を使えず、黒木を焼いて灯火にしたと伝えられています。

しかしながら布教活動はちゃんと続けられており、現在でも真宗寺院で唱えられている「和讃」を始めたりしています。
「和讃」は今様の一種で、もともと三門徒派の最重要視したものでした。
存如はこれを取り込み、少しずつではありましたが、三門徒派の寺院を取り込んでいきました。

このように本願寺はその創始から他派の隆盛に押され、ひたすら隠忍の日々を何百年も強いられてきました。
しかしながら歴代の住持たちは、それぞれ苦労しながらも教線の拡大に努めてきたのです。
ここで興味深いのは、蓮如以前の本願寺においては、他派の取り込みよりもむしろ時衆など他宗の人間と多く接しているということです。
綽如が開いた越中井波瑞泉寺も、如乗が住持となるまでは時衆の管理下におかれており、後に加賀の二俣本泉寺が若松に移転したときも、二俣に残された坊舎は時衆が管理しています。

教線を拡大することが主であって、細かい教義の違いについては徹底して教化するということもなされなかったようです。
蓮如以前の本願寺でも、まだ若干天台的な儀式が残っており、徹底した門徒の教化は蓮如の代の懸案となっていったのです。


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