蓮如の吉崎留錫


       

上画像は、吉崎にある浄土真宗本願寺派(西派)別院の山門。
この左手奥に吉崎御坊跡に通じる小径を挟んで、大谷派(東派)別院がある。
下左画像は、吉崎御坊のあった丘陵から撮影。 北潟湖水路、対岸中央に「鹿島の森」、その向こうに日本海が見える。
下右画像は、「鹿島の森」から吉崎を望む。 正面の丘陵が吉崎御坊跡。
1 吉崎の地理

吉崎は加賀越前の国境、南加賀を流れる大聖寺川河口と、越前国の北潟湖が日本海に注ぐ水路との合流地点の越前側にあります。
この合流地点の真ん中に「鹿島の森」と呼ばれる、現在は陸続きになった周囲600メートルほどの小島があり、これが大聖寺川と北潟湖水路とを2つに分けています。
「鹿島の森」は小島が砂州で陸地と繋がったもので、もともとは大聖寺川河口と北潟湖水路は、この島の背後で合流していたようです。
この「鹿島の森」の越前側には遊水池のような小さな湖面が広がり、この湖岸に吉崎はあります。
日本海とは1キロ程度しか離れておらず、「鹿島の森」に荒波から守られた吉崎は、水深が平均2、3メートルと浅いことを除けば、天然の良港と言えるでしょう。
北陸屈指の大湊である三国湊は、ここ吉崎の南方10キロほどの地にあり、水運を使えば日本海航路網にすぐに乗ることができました。


2 吉崎をめぐる情勢

この一帯は越前国河口荘細呂木郷下方として、もともと興福寺大乗院の荘園でした。
当時、河口荘は興福寺最大の荘園と言われており、興福寺大乗院も越前の甲斐氏に好を通じて年貢を確保しようとしていました。
応仁の乱当初は、能登の畠山義統、加賀の冨樫幸千代、越前の斯波義廉と、北陸では西軍が優勢でした。
東軍の越中守護・畠山政長と神保長誠らは領国と連絡がつきにくく、南近江の六角氏も西軍で、北陸路での東軍は分が悪いだけでなく、補給路の確保さえままならない状態だったのです。

そこで東軍は手中にしている将軍・室町御所を利用して、朝倉孝景に越前守護をとの約束を餌に東軍に寝返らせ、冨樫幸千代の兄・政親を立てて、越前加賀を東軍にしようと画策しました。
これが文明3(1471)年5月のことで、京都にあっても剽悍を謳われた朝倉孝景率いる軍団は越前にあっても強く、西軍の守護代・甲斐氏を攻撃して越前の一国支配に乗り出したのです。

これで困ったのは、河口荘を持っていた興福寺大乗院でした。
京都とその周辺の戦乱によって、ただでさえ年貢の確保が難しくなっていたのに、越前での協力者の甲斐氏が没落してしまえば河口荘からの年貢どころか、下手をすれば河口荘そのものが朝倉氏によって押領されてしまいます。
そこで俄然注目を浴びたのが、文正元(1466)年から細呂木郷の別当職を保持していた、和田本覚寺蓮光でした。
和田本覚寺は、本願寺覚如以来の有力な本願寺末寺で、この頃には本拠の足羽川から川の道・陸の道沿いに勢力を広げており、九頭竜川流域屈指の大坊の1つに成長していました。

こういう関係が、細呂木郷吉崎への蓮如下向を促したと言えるでしょう。
まず吉崎のある河口荘の本所である興福寺大乗院は、越前一国支配に乗り出した朝倉氏と良好な関係を保ちたい。
第2に、河口荘細呂木郷の別当職は、越前平野屈指の大坊となった本願寺末寺の和田本覚寺が持っている。
第3に、本願寺のトップである蓮如は、大乗院門跡の経覚大僧正と長年にわたって懇意にしている。
これらの理由により蓮如の吉崎下向は、本所である大乗院経覚の了承によって行われたと考えられています。

『朝倉始末記』によれば、朝倉孝景が蓮如の吉崎滞在許可を出したのは文明3(1471)年のことで、交渉者は土地の有力者だったはずの和田本覚寺蓮光と考えられています。
じっさい文明4(1472)年には、経覚が年貢受取りに遣わした楠葉進右衛門尉を朝倉氏が嫌い、このため経覚は蓮如に朝倉氏への折衝を頼んでいたりしています。
その意味では蓮如を吉崎に滞在させた経覚の目論見は成功しているわけで、またこの当時の蓮如と朝倉氏の関係が、まだまだ決して険悪なものでなかったことがわかります。


3 吉崎留錫と蓮如の布教態度

ここで留錫の語について簡単に説明します。
これは「るしゃく」と読み、「留錫」=錫杖を留めるという意味です。
錫杖は旅をする僧侶の持ち物ですから、留錫とは、旅にあった僧が一時滞在することをいいます。
ですから「蓮如の吉崎滞在」と書いてもいいのですけれど、彼の場合たんなる滞在に止まらず、ここで多大な布教活動を展開していますから、宗教的な意味合いのある「留錫」としています。
また「留」を「りゅう」という漢音読みではなく「る」と呉音読みにしているのは、わが国において仏教用語は原則的に呉音読みにするという慣習に基づいています。

さて、以上見てきたように蓮如の吉崎来住については偶然ではなく、周到な下準備の元に行われたことがわかります。
文明3(1471)年6月下旬、蓮如は吉崎に到着し、翌月下旬には北潟湖水路を眼下に望む形の、吉崎突端の小高い丘の上に坊舎(吉崎御坊)を構えました。
ここは画像でもわかるように大変見晴らしが良く、穏やかな湖水とあいまって、別荘地としたいくらいの場所でした。
蓮如はここに来て初めて、叡山の圧迫という桎梏から放たれたのです。

自由になった蓮如は、吉崎に来てますます精力的に布教を行いました。
もともと北陸の地は本願寺派のみならず他派の勢力も強く、また本願寺派の僧たちでさえ異端の教えを信奉しているように、蓮如には感じられたのです。
いくら末寺集団に近いとは言え蓮如の体は1つしかないわけで、離れた地にいる多くの門徒たちのもとすべてに本願寺派の教えを末端まで行き渡らせるのは、大変に難しいものがあります。
この難題を解決したのが、前述したように世界最初の通信教育とも言うべき「御文」でした。
御文は、本願寺派の教説を簡単な漢字と、カタカナ交じりでのわかりやすい文章に認め、門徒衆や僧あてに送った手紙です。
難解な教説は、かえって教義を誤らせることを考えての、蓮如ならではの発想でした。
彼はこれを雨が降ったと言っては書き、門徒が吉崎に多数参詣に来たと言っては書き、各地の門徒に送り続けました。

そして蓮如は、次のように言っています。
「三人まづ法義になしたきものがある、と仰られ候。その三人とは坊主と年寄と長(オトナ)と、此三人さへ在所々々にして仏法に本付(もとづき)候はゞ、余のすえずえの人はみな法義になり、仏法繁昌であろうずるよ。」(『栄玄記』)
ここで彼は、村落内で坊主と年寄、長百姓の3人が教義に通じていれば、その村の人々はすべて門徒になると言っています。
当時の村落内の情勢を、いかに彼が的確に把握していたかがわかろうというものです。

しかも北陸地方では、浅香年木氏が明らかにされたように、当時それぞれの村落内に小さな草堂を持ち、坊主がいて折々に寄合を持っていたことが確認されているのです。
彼ら村落内の坊主は、有力農民の世話によって生活が成り立っており、しかも宗旨にそれほどこだわったものではなかったため、容易に真宗本願寺派に転宗し、そして各地の有力末寺によって組織化が行われていったのです。

北陸での本願寺派が蓮如の吉崎留錫以後、それこそ燎原の火の如くに広まっていったのは、以上のような理由だったのです。
また、これに加えて蓮如自身の布教態度も徹底したものでした。
のちに地方から山科本願寺に門徒が参詣に来たとき、寒の頃には熱く燗をした酒を出し、暑熱の折にはよく冷やした酒を出させるよう接待の者に命じ、また門徒をもてなす食事についても田舎者扱いをして粗略にしてはいけないなどの注意をしています。
蓮如自身も門徒との対面の際は、上段の座から見下ろすのではなく、「平座」にて雑談をしながら、法義を懇切丁寧に語ったのです。


4 多屋の賑わい

以上のような蓮如の布教態度は、吉崎をまたたく間に一大宗教センターに押し上げました。
「越前国加賀ザカヒ、ナガエ・セゴエ(長江瀬越)ノ近所ニ、細呂宜郷ノ内吉崎トヤランイヒテ、ヒトツノソビヘタル山アリ。ソノ頂上ヲ引クヅシテ、屋敷トナシテ、一閣ヲ建立ス、トキコヘシガ、イクホドナクテ、ウチツゞキ、加賀・越中・越前ノ三ヶ国ノウチノカノ門徒ノ面々ヨリアヒテ、他屋ト号シテ、イラカヲナラベ、イヘ(家)ヲツクリシホドニ、イマハハヤ、一ニ百間ノムネカズ(棟数)モアリヌラントゾオボヘケリ。或ハ馬場大路ヲトホ(通)シテ、南大門北大門トテ南北ノ其名アリ。」(文明5年8月2日『御文』)

ここで出てくる「他屋」とは、諸国各地の坊主が、自分の管轄する門徒が吉崎に参詣したときに泊まらせた宿泊所で、一種の宿坊のようなものです。
それ以外にも事務所なり詰所的な機能をもっていたと考えられており、このおかげで各地の門徒は安心して吉崎に滞在し、蓮如の教説を聞くことができました。
他屋はその数の多さから、後に「多屋」と書かれるようになり、後の寺内町の走りとなったものでした。

雪深い北陸の門徒にしてみれば、都から本山の代表者がはるばるやって来たようなもので、初めのうちは興味津々、実際に会って話を聞いてみると、自分達と同じ座敷で、しかも自分達にもわかるような話し方での法話が聞け、そのうえ僅かながらも酒食のもてなしも受けたことでしょうから、吉崎に参集する門徒が増加の一途をたどったのもうなずけるというものです。
また、北陸各地から集まる門徒達の噂を聞き、その頃各地で成長しつつあった在地武士すなわち土豪たちも吉崎参りを始めたようで、彼らと各地の有力末寺たちが、吉崎の多屋において結びつきを強めていったであろうと考えられています。

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