蓮如・吉崎への道のり


1 蓮如の本願寺住持職就任

長禄元(1457)年6月18日に父存如が没し、継母如円とその息子応玄との後継者争いにおいて、叔父如乗の強力な後押しで勝った蓮如は43歳にして本願寺住持職を継ぎました。
蓮如6歳のときに母が本願寺を去り、入れ替わるように存如は正室如円を迎えて以後、蓮如は存如の長子とは言え、何十年も庶子の扱いを受けていたのです。
当時ただでさえ貧しかった本願寺の部屋住みとして貧窮の中にありながら、蓮如は自派の教説を真摯に学ぶとともに、そのころ隆盛していた真宗他派に比べて衰微としか言いようのない本願寺をなんとかしなければと、彼15歳のとき決心したと述べています。

蓮如の本願寺住持職就任を強く推した如乗は、存如の実弟で蓮如の叔父ではありますけれど、じつは蓮如より3歳年上でしかありません。
如乗が加賀国二俣の地に本泉寺を建立したのが、如乗31歳、蓮如28歳のときですから、それ以前の彼ら2人は叔父甥の間柄を越えて、おそらく兄弟のような付き合いをしていたのではないかと思います。
そんな中で如乗は、蓮如の自派振興の決心や教学研鑚の様子から、蓮如に賭けたのではないかと思えるのです。
蓮如は如乗の恩を忘れず、彼の自坊・二俣本泉寺に二男の蓮乗を、如乗の娘婿として送り出しています。

蓮如の本願寺住持職就任直後、破れた継母如円と弟応玄は本願寺にあった経典などの聖教類ほとんどを持ち出し、加賀国大杉谷に逃げていってしまいました。
継母如円はそれからしばらくして前非を悔い、寛正元(1460)年10月に死去、弟応玄もその後、蓮如の下に帰参しており、蓮如はこうして誰はばかることなく本願寺派の布教に邁進できる環境が整い、年来の懸案だった真宗本願寺派の振興に乗り出していったのです。


2 蓮如の布教方法

当時の真宗は本願寺派の他に、京都渋谷の仏光寺を中心とする仏光寺派、高田派、三門徒派など、いくつもの派に分かれており、それぞれ布教活動を行っていました。
この分派各派もちょっと複雑で、これらについては稿を改めたいと思います。

蓮如の布教方法でよく言われるのが、「御文(おふみ)」または「御文章」と呼ばれた門徒坊主宛の手紙です。
ある意味、世界最初の通信教育であり、これによって蓮如の教説が門徒坊主のすみずみに行き渡ったと言われています。
しかしこれだけではなく、「本尊の下付」も重要な布教方法でした。
当時の本願寺派では、木造本尊とか絵像本尊よりも「名号(みょうごう)」と呼ばれる軸物の文字本尊を下付していました。

蓮如によれば、この本尊は常に掛けて信心を持たせるもので、掛け破った本尊は本願寺に返納され、新しい本尊を下付されるものとしています。
これにより、蓮如ら本願寺住持と末寺坊主・門徒の間には、強い繋がりが継続されることになるわけです。
この数が半端でなく、本願寺派が隆盛になり始めた蓮如時代でも「御斎前に三百幅まであそばされ」とか「御斎前に名号を百幅二百幅」(『本願寺作法之次第』)とあり、いかに膨大な下付があったかが知られます。
この本尊下付には御礼金の納入があり、これによって本願寺の経済は潤ってくるようになりました。


3 堅田門徒の隆盛と比叡山との確執

蓮如より前の歴代本願寺住持は蓮如ほど教義をうるさく言わなかったため、のちに本願寺の忠実な門徒集団となった近江堅田門徒でさえ、その信心はそれほど堅固でなかったと思われます。
しかし真宗他派の全国的な広がりの中で、近江国堅田門徒が蓮如の布教活動によって再組織化されたことは、衰微していた本願寺に参詣人を増加させるなどの好影響を与えていきました。
彼ら堅田門徒は、琵琶湖の最も狭まった地理的位置から湖上交通権を握り、琵琶湖から北方の日本海沿岸ルートに乗って日本海側各地に進出しており、その富裕さを誇っていたからです。

しかし、富裕な堅田衆が蓮如の代になって本願寺への専修念仏のみに帰依したことは、本願寺に別な危機をもたらしました。
堅田の南隣には山門・比叡山の一大勢力圏である坂本があり、本願寺は、形式上本願寺の本所であった延暦寺の反感・嫉視を買うこととなったのです。

山門の反感が本願寺への襲撃という形で表面に現れてきたのは寛正6(1465)年正月のこと、史料によって1日のズレはあるのですけれど、正月上旬であったことは間違いありません。
どうもそれ以前に、叡山が本願寺を懲らしめようとしたこともあったようで、そのたびに本願寺は本寺である山門門跡の青蓮院にとりなしてもらっていたようです。
しかし結局、寛正6年正月、叡山西塔の指示のもと、叡山の荒法師、祗園社の犬神人、坂本の馬借らが退去して本願寺に乱入してしまいました。

蓮如はからくも脱出に成功しましたけれど、長男の順如などが山門勢に捕えられてしまい、対応に苦慮した本願寺では、蓮如の反対を押し切る形で山門へ礼銭を納めることに決し、一応和談が成立しました。
しかし本願寺を襲われた堅田門徒の激昂は収まらず、西近江では山門と堅田門徒が争い続けていたようです。
そして3月に入り、祗園社犬神人を中心とした山門勢は再び本願寺を襲い、やっとの思いで賑わい始めた本願寺でしたけれど、せっかくの坊舎も犬神人に与えられてしまって破却=消滅の危機に立たされました。

このとき、真宗別派である仏光寺派は山門妙法院門跡にすがって難を免れましたが、高田専修寺派では一歩進んで叡山に本願寺派との違いを釈明し、山門の安堵状を得ています。
このことから本願寺門徒と専修寺門徒との確執が始まったとされており、これは加賀越前において、両門徒の抗争の火種となっていきました。


4 応仁の乱と蓮如

応仁元(1467)年1月、上京は御霊林の合戦に始まった応仁の乱は、南北朝の争乱以来、再び全国の有力武士を2つに分かち、相争う時代の幕を開けました。
幕府を占拠して緒戦の劣勢を取り戻した細川派=東軍を支持したに従い、近江堅田門徒も東軍側につきました。
しかし北近江の京極持清が東軍に属したのに対して、南近江では六角高頼が西軍に所属し、本拠地を失っていた蓮如は堅田門徒を頼ってしばらく堅田に滞在しています。

しかし蓮如が応仁2(1468)年2月に大津に移った直後の翌月3月、堅田衆が花の御所の造営奉行の荷を奪ったとの理由で、奉行に依頼された山門衆徒が堅田を全面攻撃したのです。
堅田衆も徹底抗戦したのですが、火を放たれて大敗北を喫し、彼らは琵琶湖沖合いの沖ノ島に脱出しました。
これが世に言う「堅田大責(おおぜめ)」で、堅田衆の構成員は無事だったものの、本拠地の堅田は大打撃を受け、以後しばらく堅田衆は逼塞を余儀なくされます。

蓮如はこの直後から奈良など各地を回り、翌文明元年、大津の地に近松坊を建立しました。
奈良には蓮如の師匠の1人である大乗院経覚がおり、かれ大乗院経覚は関白九条経教の子で興福寺大乗院門跡・大僧正ですけれど、その母が本願寺綽如の娘で、経覚と蓮如の父・存如とは従兄弟にあたっています。
蓮如はこの大乗院経覚にも教学を学んでおり、その縁故もあって興福寺の末寺である三井寺の、別所の大津近松の地に近松坊を建立しました。

三井寺は山門に対抗する寺門派の本山として有名ですけれど、当時は山門に押されて苦しい経営を強いられていました。
参詣者の増え始めてきた本願寺派の坊舎を敷地内に建立させることは、足の遠のいていた三井寺の参詣者を促すことにもなり、事あるごとに本願寺を弾圧した山門と違って、三井寺は本願寺派に助け舟を出したことになりました。
実際、近松坊ができたことにより、三井寺門前の町にも人が集まり始め、三井寺にとってもこれは実入りのいい話でした。

ここで一言蛇足を加えるならば、興福寺じたいは決して真宗を容認してはいないということです。
興福寺が支配していた大和国でも、当時徐々に一向衆門徒が増加傾向にあり、興福寺としては彼らが増えつつもなお、弾圧の手は緩めていません。
蓮如と大乗院経覚との関係はかなり親密でしたけれど、それはあくまで個人間のものだったのです。


5 蓮如、吉崎に至る

しかし三井寺の保護があるとしても、大津ではあまりに山門に近すぎ、蓮如はここにも安住することはできませんでした。
すでに本願寺のみならず、蓮如自身が山門衆徒に狙われており、彼は早急に別の布教地を捜さなければならなかったのです。
この当時、本願寺派が流布していた美濃・尾張・三河などの東海地方や北陸地方でも、蓮如の教説とは違った「異端」の教説が主流を占めており、蓮如としてはこの「異端」を正さなければなりませんでした。

中でも北陸では、歴代の本願寺住持により各地に根拠地が作られており、また大恩ある叔父の如乗もおりました。
しかし越前平野の中央部にはすでに真宗他派の根拠地が多くあり、そのあたりから少し外れる形で、布教地を捜す必要があったのです。
また有力門徒群である堅田衆との連絡を取るために、水運交通の要衝であることも必要でした。
これらの諸条件に合致する場所として選ばれたのが、越前の最北端にして越前加賀国境の地、吉崎だったのです。

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