蓮如以前の加賀国


 白山と阿弥陀如来

白山は山容からいうと、白山は御前峰、大汝峰、剣ヶ峰の3峰からなり、これら主峰の南に、別山という山があります。
しかし信仰の対象としての白山は、御前峰、大汝峰、別山の3峰が神格化され、御前峰を主峰として白山妙理大菩薩・菊理媛命(きくりひめのみこと)とし、本地は十一面観音、大汝峰は大己貴命(おおなむちのみこと)で本地は阿弥陀如来、また別山は別山大行事・本地は聖観音とされています。

これら3神が天台系の白山三所権現として崇められてきたわけですが、しかし中世においては本地垂迹説の流行により、垂迹の神々よりも本地の仏のほうが重要視され、白山本宮といえども神事より仏事が多く行われていました。
したがって加賀越前では、浄土教の流行も含めて阿弥陀如来への親近感が、他国よりも少なからずあったと考えられています。


2 加賀の在地

室町時代後期の、加賀の在地すなわち村々では、荘園公領に限らず、村の長老としての「年寄」、自分の名前を冠した名田を持つ、前時代の名主クラスの長(オトナ)百姓、長百姓の分家や「名子」と呼ばれる一般農民、それに小作や下人などの下層民がいたと考えられています。
これらのうち、特に長百姓は乙名(オトナ)とも呼ばれ、村落内での取り決めなどをする寄合では有力農民として振る舞い、いわば村落の代表者としての顔を持っていました。

こういう村落形態は、農業先進地帯である近畿地方を中心に広がっており、農業中間地帯とされる北陸や東海地方にも広がっていたと考えられています。
彼ら長百姓は長衆(オトナシュウ)とも在所長衆とも呼ばれ、特に有力な長衆は荘園などの「番頭」として年貢収集に関わってもいました。


3 村々の草堂と寄合

浅香年木氏は『中世北陸の信仰と社会』において、加賀の史料には恵まれなかったものの、越前、能登、越中に残る史料を検討され、鎌倉時代から南北朝期にかけて、北陸では白山などの地方宗教権門による寺院と、地頭領主クラスの信奉する寺院、そしてこれらに相対する形での、村落内での村堂・草堂などの寺庵の存在を明らかにされました。

簡単に言うと、古代的な一宮二宮に付属する形での地方寺院がまずあり、これに武士領主などが自分たちの祈願所とも言うべき形で寺院を建立または取り込んでいき、領地内での信仰の中核としていったわけです。
これらは真言とか天台とかの末寺ではありましたけれど、それはあくまで荘園制的な領有関係であって、宗派的にはそれほどはっきりしたものではなく、地域の有力寺院と呼ばれているものの、宗教的団体としてはかなり未組織の部分が残されていたということでした。
ですから中世の地方寺院がころころと宗派を変える理由は、もともとこの荘園制的領有関係が主だったためで、それが鎌倉新仏教の布教に遭遇して宗旨替えをしたということのようです。

村々においては、寺と呼ぶよりも寺庵と書いた方が的確な、小さなお堂が建てられていました。
これらは「地名プラス本尊名プラス堂号(寺号)」という形の名前で呼ばれ、例えば「○○薬師堂」とか「△△阿弥陀堂」とか「××地蔵堂」とか呼ばれていました。
ここには一応、小さな寺田を持つ住僧がいましたけれど、領主とは全く関わりなく、したがって村落内の有力農民の世話によって支えられていました。
彼らは有力農民の世話によって寺庵を維持しており、当然のことながら長百姓など有力農民の意志によって規制を受け、勝手な振る舞いは許されませんでした。
そして村々では、何か事があるとはこのような寺庵に集まり、寄合を開いて話し合っていたのです。


4 禅宗の流行と草堂

曹洞宗の本山が、道元の開いた越前永平寺であることはよく知られています。
鎌倉時代の中頃、正応2(1289)年に加賀の有力武士である冨樫家尚に招かれた永平寺の徹通義介は、冨樫氏の館近くに大乗寺を建立し、ここを冨樫氏の氏寺としました。
その後、大乗寺の瑩山紹瑾は文保2(1318)年に口能登の羽咋に永光寺を、元亨元(1321)年には奥能登鳳至郡に総持寺を建立して北陸における曹洞教団の根拠地としました。
横浜市鶴見区にある総持寺は、この鳳至郡総持寺が移転したもので、旧地には今でも総持寺祖院が建てられて修行の場となっています。

これら曹洞教団と、臨済宗大徳寺派・妙心寺派が地方布教にあたったことを「林下(りんか)」と言い、北陸はもとより全国各地の草堂を自派に取り込んでいきました。
ただ只管打座と言ってひたすら座禅による修行を重んじた曹洞宗でしたけれど、在地に密着する草堂の取り込みにあたっては、ごく一部を除いては、そのほとんどがこれまでの雑多な民間信仰を受け入れていたということで、その宗教的純粋性を伝えるということはありませんでした。
在地にあった草堂は、ここでも村々の意に添って運営され続けたのです。


5 時衆2代他阿真教の布教

鎌倉時代中期の人で時衆の祖・一遍の布教方法は、当時としても不思議なものでした。
賦算といって「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と刷った念仏札を誰彼の別なく配り、寺を持たずに遊行を続けたのです。
相手の信心のあるなしに関わらず、札を配りながら全国を回った彼に付き従う集団は、時衆と呼ばれました。
いわゆる浄土教の一種ですが、彼の教義の特徴は神社信仰にも基づいており、他の念仏集団とは一線を画していました。

正応2(1289)年に一遍が没すると他阿真教はその後継者となり、彼は正応4(1291)年、加賀今湊・藤塚・宮腰などの交通拠点で賦算を行いました。
彼ら時衆の念仏は、交通の要衝にいた商工業者などを中心に広まり、その柔軟で単純な教義から、かなり広まっていきました。
時衆は山間部にも多くいたようで、例えば二俣本泉寺が移転したときなど、その寺跡の管理を任されたりしており、室町時代にも在野の念仏集団として存在し続けていました。


6 加賀守護・冨樫一族

冨樫一族はもともと平安時代後期に土着した斎藤氏系武士団の1つで、他氏が没落していく中に1人孤塁を守り、少しずつではありましたけれど北加賀を中心に勢力を広げていきました。
鎌倉時代後期に2度ばかり加賀守護に任じられた他は、外様の土着系武士ということで、足利将軍家など中央に認められることも少なく、冨樫氏が加賀守護として返り咲いたのは、室町時代も中期の応永21(1414)年になってからでした。
しかしそれも室町幕府内の勢力争いなどによって目まぐるしく変転し、たいへん不安定なものだったのです。

特に応仁の乱直前は、冨樫氏も他氏の例にもれず2家に分裂していました。
ここで問題をより複雑にしたのは、嘉吉の乱で没落した播磨の赤松氏が加賀半国守護に任じられたことでした。
赤松氏の遺臣が旧南朝の保管していた神器を取り戻したため、幕府は恩賞として当時7歳の赤松政則に北加賀の半国を与えたのです。
赤松氏の守護代・小寺藤兵衛は長禄2(1458)年10月、加賀に押し入り、冨樫氏被官の岩室氏と合戦して北加賀への入国を果たしました。
ここに加賀は冨樫泰高と成春という叔父甥の両家に加えて、外来の赤松氏守護代・小寺藤兵衛が三つ巴となって応仁の乱を迎えようとしていました。

しかし寛正3(1462)年に甥の成春が先に没してしまい、その後は鶴童丸と呼ばれた政親が継ぐと、その2年後の寛正5(1464)年、叔父の冨樫泰高も隠居してしまいます。
泰高の息子の泰成は病弱だったようで、冨樫家は若い政親と病弱な泰成という、これまた不安定な惣領が並び立つことになりました。

ただ幸運なことに応仁の乱が始まると早々、赤松氏は備前・播磨の本領を回復しており、そのため北加賀の守護職は冨樫成春の息子である政親に譲られたと考えられています。
しかし大乱直前まで国内を容易にまとめられなかったことを考えると、両冨樫氏の前途にはまだまだ遼遠なものがあり、在地の強力な掌握などもたいへん難しかったことが想像されます。

しかも厄介なことに北加賀で在地武士たちと争っていた赤松氏は東軍であり、これに対抗するために北加賀の在地武士たちは当然西軍派となります。
彼らの後ろには、北方には西軍の雄である能登畠山氏があり、南には西軍派の越前甲斐・朝倉の両氏もあって、在地武士といえども東軍に属した北加賀守護の冨樫政親には、容易になびかなかったのです。

もともと細川氏の支援を受けて東軍派だった南加賀の冨樫泰高と、若いながらも東軍派に属した政親を嫌った北加賀の在地武士たちは政親の弟である幸千代を担ぎ出し、加賀の西軍派として政親に対抗させます。

以上、冨樫家の内紛について縷々書いてきましたが、これらは基本的に加賀の武士同士の話です。
在地武士とは言ってもやはり小領主的武士には違いなく、「加賀の在地」に出てきた長衆や一般農民とは一線を画されていました。
蓮如以前のこのとき、在地武士たちもそれぞれの在地から、遊離し始めていたのです。

前項に戻る     トップに戻る     次項へ

inserted by FC2 system