「冨樫」氏と「富樫」氏について


一般的には、トガシ氏は「富樫氏」と記述されていますが、しかし本サイトでは、「冨樫氏」と記述しています。
六郎光明の屋形サイトにおいて、一部説明していますけれど、当時は文部科学省とか国語審議会などというものは存在せず、本人でさえ往々にして自分の名前を間違えて書いていますし、それが通用する時代でもありました。

トガシ氏は越前の斎藤系藤原氏の出身と考えられており、それが加賀国富樫の地に土着して、トガシ氏を名乗っています。
このように、土地の名を冠することは古代から一般的に行われており、それは公家武家を問いません。
例えば公家の一条家は京都一条の地に邸宅を持ち、そのために一条家を称していますし、安芸国の毛利氏はもともと大江氏ですけれど、鎌倉時代に相模国毛利の地に土着し、そのため毛利氏を称しています。

もちろん地名だけではなく、その官職などから氏を称することもあります。
トガシ氏の出身氏族とされる斎藤氏は、藤原利仁の子の叙用が斎宮頭に任じられたことから、その子孫ということで、斎藤氏を称したとされています。

加賀国富樫の地は史料上、ほとんど「富樫」と書かれており、地名としてのトガシは、「富樫」で間違いないと考えられます。
そうなると、土地の名を冠したトガシ氏は、当然「富樫」氏と記述すべきかもしれません。

しかし、現在に至るまでもトガシ氏研究の第一人者とされる、石川郡野々市町の舘残翁氏は、その大著『冨樫氏と加賀一向一揆史料』において、以下のように述べられています。

「冨樫氏の富は正字にして冨は俗字なるは字典の示すところなり、文献亦一定せず。殊に最近富を使用すること甚多し。其何れに従ふべきやに迷ふこと久し。今冨樫氏花押叢を編むに当り、蒐集せる文書高家、晴泰の自署冨なるを明かにし、且晴貞の裔たる東京に冨樫国彦氏冨なる等を参酌考定すれば、其文字の正俗を論ぜず。冨樫氏なる事正当なり。茲に冨樫氏には冨を使用することを主唱す。」『冨樫氏と加賀一向一揆史料』 巖南堂書店 480頁

つまりは、トガシ氏の花押集を編さんする過程において古文書を調査したところ、トガシ高家や晴泰らの自署に「冨樫」という文字が記されており、かつ、歴史上最後のトガシ氏の当主であった晴貞の子孫とされる家においても「冨樫」の文字が使用されていたということを考え合わせると、トガシ氏は「冨樫」氏とするのが妥当であるという主張です。

石川県教育委員会においては、トガシ氏の字について明確な主張はなされていませんが、室町時代にトガシ氏が守護所を置いた石川郡野々市町では、『野々市町史』編纂に際して、舘氏同様、「冨樫」氏としています。

地名を冠するという当時の考えに従えば、トガシ氏は「富樫」氏ですし、舘氏の研究に従えば「冨樫」氏となります。
しかし、最初に書いたように、当時の漢字使用のあいまいさを考えますと、どちらでも良いということにもなります。
このあたり、例えば教科書などでも「富樫」氏と記述されている根拠なのかもしれません。

ですから、本サイトの主宰者としては、他の方々の場合、どちらの字を使われようが全然構わないと思っています。
ただ、私個人としては、舘残翁氏の業績は無視し難いものがあり、郷土史の大先達である舘氏に敬意を表するという意味を込めて、「冨樫」氏と記述しています。

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