初めにこのホームページの考え方


私が加賀一向一揆についてのサイトを立ち上げようと思った理由を、初めにお話しておきます。
理由は2つあります。

第1は、教科書や学習参考書などでの記述によるものです。
これらは、加賀一向一揆が加賀国守護の冨樫氏を滅ぼしてから信長に滅亡させられるまでの約100年間、加賀国において自治(または共和制とも)が行われたというような記述です。
似たような時期に起こった山城国一揆とか、会合衆による自治という堺の事例とかの流れとしての記述だと思いますが、これはあまりに単純な見方であって、とても歴史的事実をそのまま反映したものではありません。

第2は、加賀一向一揆イコール本願寺というような、あたかも加賀一向一揆と本願寺が同一のものであるような考えが、おそらく一般的なのではないかという、私個人の危惧によるものです。
以上2つの考え方は、かなり根深いのではないかと思われます。

もちろん、これらの考え方については、それなりの理由があると思います。
まず一向一揆についての理解が他の有名な戦国大名などと違い、あまり進んでいないこと、また戦後何十年もの間、歴史研究者の間で中世の国一揆・土一揆についての過大評価が行われ続けたこと、逆に加賀一向一揆を加賀国のみの事例と考えて、日本史という科目の中で前述のような単純評価に止めざるを得なかったことなどです。

ですから個人的には、これら前述のような見方について、私は反対するものではありません。
これらはあくまでも、歴史の1つの見方だからです。
ただあまりに単純化した見方では、真実を見失う恐れが多分にあるとは思っています。

例えば、コーヒーの入ったカップを思い出してください。
普通、右利きの人であれば取っ手は向かって右に、左利きの人であれば反対に置きます。
しかし取っ手を向こう側に置いて見ると、取っ手は見えなくなり、取っ手反対側のカップの模様が見えてきます。
カップを手にとって目の高さに持ってくると、模様はよく見えますが中に入っているコーヒーは見えなくなります。

またカップの底は、コーヒーを飲み干さない限り、しっかり見ることはできません。
カップを遠くに置いてしまうと、コーヒーの入ったカップということしかわかりませんが、それがどんなものの上に置かれているかは見えるようになります。
ただこの場合は、カップの美的価値や中のコーヒーがどんなものかはわからなくなってしまいます。

このようにコーヒーカップでさえ、見る位置によって見えるものが変わってしまいます。
時間の彼方にある歴史的事件であれば、なおさらです。
ですからこのホームページでは、できるだけいろいろな視点から加賀一向一揆というものを見られるよう、紹介していくつもりです。


このホームページを作成するにあたって留意したことは、「当事者の身になって考える」ということです。
どのような歴史的事実でも、人間の行ったことである以上、当事者の考えが主であって、後世の、特に近世儒教的な発想で評価されてしまっては本人も迷惑でしょう。
また単純な民衆史観によっておだてられても、当事者にとってはちょっとニュアンスが違うのではないかと思われます。
これは私の主宰する他のホームページ・「六郎光明の屋形」についても、原則としているところです。

前置きがやたらと長くなってしまいました。
それではごゆっくり、加賀一向一揆の世界をお楽しみください。

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